《カリオペ》と名付けたナローボートで暮らす双子の姉妹。そもそも亡き母が2冊の本を持って住み始めた家で、窓の間に作りつけた三段の棚は母が残した本で埋まっていた。棚以外も本で埋めたのは姉のペギーで、そして、〈あたしには興味のない紙もあった。あたしたちはそれを正方形に切って、古いビスケット缶に入れ、テーブルの上に置いた。あたしが料理をしているあいだ、モードはそれをありとあらゆる形に折る。紙を折ることは、妹にとって息をするのと同じだった〉。狭いだろうし揺れるだろう。でもなんとも魅力的。つい先ごろ知人からナローボートでの旅の話を聞いて、免許なしで操縦できるというので俄然興味がわいたところだった。《カリオペ》は係留しっぱなしとはいえ重さは大丈夫なのだろうか。ペギーはこう言う。〈運搬船だったんだよ〉〈石炭や煉瓦を運んでたの〉。
2人とも、母同様にすぐ近くのオックスフォード大学出版局の製本所で働いている。担当は「折り」である。複数ページを規則的に並べて両面に印刷した紙を1ページ分の大きさになるまで折るという、製本工程の最初の作業だ。数がかさむとリズムにのって踊るように進められるが、枚数の少ない校正刷りではそうはいかないのでみんなは嫌う。ペギーは文字を読むのが好きなので、むしろこちらを好んだようだ。モードは、自分だけに聞こえる音楽に合わせて〈手を踊らせる〉ことがある。ペギーは愛と責任で妹を見守るが、重荷で言い訳にすることもある。折りながら読みながら、ペギーは折り損じを鞄に入れて持ち帰る。〈あたしは製本のこの段階にある本が大好きだった。そして確かに《カリオペ》にはそうした本が溢れていた。かがり終わったけど、どこかに欠陥のある本たち。頁の破れ、こぼれた糊、あるいはもっと目立たない疵もある――背のバッキングや丸み出しの失敗は、布装を上手にやれば隠れてしまうが、そうならなかったもの〉。
第一次世界大戦が始まった1914年に21歳だった2人を描いたのが、『ジェリコの製本職人』(ピップ・ウィリアムズ著 最所篤子訳)だ。戦争中も2人は変わらず折り続けたが、母の”最愛の友”だったティルダはWSPUを抜けてVADになり、行く先々から手紙をくれるようになった。ペギーは職場から戦場に向かう男たちに代わって新しい仕事もした。早く覚えようという彼女の貪欲な目線で作業のだんどりが描かれているので、興味がなかったら読み飛ばしそうなくらい細かくていい。修復室でもじっと見た。〈古色蒼然とした革表紙から本を切り離し、かがりを外しにかかっていた。彼がナイフを研ぎ、折丁を紐に固定している糸の上で刃を動かすのを見つめた。その本をかがっただろう女性が気の毒になり、胸がずきんとした。もうずっと前に死んでしまっているだろうが、彼女の仕事がこんなにあっさりとなかったことになるのを見ると、思わず戸口で足が止まった〉。修復は、前の作業を「なかったことにする」ものではないだろう。むしろ形跡を糸口に過去の人との対話で始まるもので、ペギーも十分わかっていたはず。だからここで「気の毒」と思い「ずきん」としたのは、いかに戦禍の恐怖にさらされていたかとか、気を張っているペギーの幼さが現れているところなのかもしれない。
他にもペギーは、朗読と手紙の代筆の奉仕作業で一緒になった女学生に大学受験を勧められたり、負傷したベルギーの軍曹と恋に落ちたり、モードのほうは、仕事も家族も失ったルーベン図書館の元司書と心を通わせたりする。また、同じ著者の前作『小さなことばたちの辞書』の主人公だったエズメも登場する。オックスフォード英語辞典の編纂者だった父の作業場に出入りして、辞書に収められないことばを集めていたのだった。そのエズメに大学出版局に勤める植字工のオーウェンが恋をして、エズメが集めたことばを内緒で本にして贈りたいと言う。ペギーも手伝い、1冊だけの『女性のことばとその意味』は完成した。
『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(サイモン・ウィンチェスター著 鈴木主税訳)の映画版『博士と狂人』には、OEDの「パート1 A-ANT.」の原稿が揃ったところで、活字を組んで校正したり刷り本に喜ぶシーンがバタバタッと出てくる。続いてマレー博士がその中の1冊をマイナーに手渡しに行くのだが、ページをめくるところを見ると表紙は硬く厚いボール紙を貼ったような感じに見える。ちなみに『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』によると、〈表紙は灰色がかったオフホワイト、各ページの用紙の片側が断裁されていない第一分冊は、(中略)オックスフォード大学クラレンドン出版局から12シリング6ペンスで出版され〉、マレー博士とマイナーが初めて面会したのは1891年1月だったようだ。OEDの最初の完本「第1巻A-B」は1888年、「パート1 A-ANT.」は1884年の刊行だから、ペギーとモードの年齢からすると、2人の母のヘレンがこれらを折っていたと想像してもいいだろう。
2人の生年を仮に1893年とすると、明治21(1888)年生まれの賀川ハルとは5つ違いだ。ハルは、伯父の村岡平吉が経営する福音印刷が1904年に神戸支社を開設すると製本女工となり、職場で豊彦と出会って結婚するのが1913年。翌年、豊彦が米国に留学するとハナは26歳で共立女子神学校に入学しているから、ハナがようやく本格的に学んでいる間のできごとが『ジェリコの製本職人』ということになる。本の最後で再挑戦のすえにサマーヴィル・カレッジの奨学生になったペギーが描かれるが、このときたぶん27歳。文通でもしていたら2人は仲良しになれただろうか。のちにハルは『女中奉公と女工生活』(1923)の中で、みんなのおやつや活字を空いた弁当箱に入れて持ち帰る同僚を見て思ったことをこう書いている。〈資本家の大なる不合理に対抗するにそれらは余りに惜しむべきことではあるまいか。そんな欠点をよい餌食にされて資本家に横暴を極められているとするなら不正な数人を除き、一人を除いた多くの働人はどうして立てよう、その人こそ実に獅子身中の虫と言いたい。労働は神聖なりという働人が誠に正々堂々と一点の非なく労働の運動を進ますべきだと私は思う〉。ペギー、ハルさんが上司じゃなくてよかったネ。
『ジェリコの製本職人』の著者、ピップ・ウィリアムズさんは、「謝辞」で製本家のピーター・ザイチェック氏の名前をあげている。メアリー・ヴァン・クリークの『製本業における女性たち』(1913)という本のことも教えてくれ、しかもそのpdfをプリントして、ボール紙と布で製本して贈ってくれたという。翻訳した最所篤子さんは「訳者あとがき」に、訳すにあたって見学した牧製本印刷株式会社の製本所と、手製本を習った製本工房まるみず組への謝意を表している。最所さんのSNSには、牧製本から借りた資料の1つ、ドイツ語から訳した『製本家のための専門知識』の写真もあった。「1953年2月14日午後9時」と訳了の時間はあるが訳した人の名前はなく、これは、手書きの13冊のノート全878ページを牧製本が綴じたものだそうだ。どちらもいい話だなあと思った。「製本」とは本の中身を守り独立を助けるけれど、手渡すための包装というのも、かけがえのない役割だと改めて思った。
「著者あとがき」では、この本の構想のきっかけにも触れている。前著『小さなことばたちの辞書』を執筆中、オックスフォード大学出版局のアーカイブに1919年創刊の機関誌「クラレンドニアン」を見つけたが、職員の人物紹介に女性がほぼいなかったそうだ。その存在を確認できたのは、写真が2枚、1925年に英国産業連合会が製作した大学出版局での製本作業の映像、出版局の監督が退職したときに贈られた寄せ書きに残る47人の女工の名前だけ。実際の寄せ書きの写真はこの本の巻末に載せてあり、2枚の写真と映像はネットで見ることができる。他に、ピップ・ウィリアムズさんが『The Bookbinder of Jericho』をご自身でかがっている動画も見つけた。へらを握り、角を揃えて紙を折り、糸でかがって背固めをして、断裁して丸み出しして花切れを貼り、背貼りして革をすいて表紙を貼って、プレス。タイトルを入れた完成状態は映っていなかった。ページをぐっと開いて綴じ糸を大写しにするのにはちょっとハッとしたけれど、惜しげもない感じがいいなと思った。