文学とは何か

管啓次郎

そんな主題で詩が書けるものだろうか
だがぼくがわからないのは日本語では以前から
仏文学者といえばフランス文学研究者
国文学者といえば日本語文学研究者
ただ文学者といえば小説家・批評家・詩人などの文筆家で
言葉の定義がどうにも曖昧すぎる
いったいなぜこうなったのかということだ
そもそも文学とは何か
その定義からはじめなくてはならないだろう
文学とは文についての学
文とは語の連鎖により意味のかたまりが生じたもの
しかしこれではセンテンスの定義で
日本語が「文」と呼ぶものは
センテンス
パラグラフ
文章
のいずれでもありうる
書き言葉のつらなりのすべてが「文」だということか
それが「学」であるというとき
「学」の内容は3つに分かれる
1 ひとつは知識、すでにわかっている知識と情報を身につけ博識をめざす
2 ひとつは研究、すでに書かれた作文(=作品)のかたちを確定し読む
3 ひとつは制作、まだ書かれたことのない文を実現することを試みる
この3つを混同しているから「文学者」の意味がわからなくなる
冒頭でいった「仏文学者」の活動は1と2に
創作家の活動は3に
しかし批評家の活動は2と3にまたがっているのかもしれない
文学をやろうと決めた人の多くはまず1にむかうが
1を洗練させるとき必ず2に関わることになり
その先に3がある
いや3が最初から全面的にある人もいるが
3だけで1と2を飛ばしていると非常に幼稚なものになる
それでも文は知識や経験から生まれるのではなく
それを証明するのが詩というジャンルだといってもいい
文学をやるのだという気持ちは決意だが
そう明言しなくてもいつのまにか始めてしまう人も多い
もっとも簡単には
読むことの小道をたどるうちに
書くことの空き地にたどりつく
読むことが書くことの前提だと気づいたとき
文学がはじまっている
いちどはじめてしまうと文学はつづく
やめることができない
どんどん激化し過激になる
どうもそういう性質がある
また文学をはじめるといろいろなことが気になる
特に気になるのは言葉のつらなりで、たとえば
「メランコリックな村」
といわれたとき、そのフレーズがまったく理解できなくなる
文学という精神的態度の本質は「理解できない」
ということにあるので
いろいろなことを理解できる人は
どんどん文学から脱落していい
もっとも基本的には
文学はむかしの文を読むことにはじまり、続くので
その秘密を考えておきたい
こんな例をあげておく
「ケルト人のこんな信仰が
ぼくには大変に腑に落ちるのだ
われわれが失ってしまった人々の魂が
何か人間以下の存在の中に囚われているということ
獣だったり、植物だったり、無生物だったり、
実際そうしてわれわれにとっては失われたまま
ある日
いや多くの者にとってはその日はけっして訪れないのだが
たまたま樹木のそばを通りかかって魂たちの
牢獄になっている物を拾い上げてしまう、そんな日がやってくる。
そのとき魂たちはふるえ、われわれに呼びかけ、
われわれがかれらに気づくとたちまち
魔法が解けるのだ。
われわれによって解放されて
魂たちは死を打ち負かし
われわれとともに生きるために
帰ってくる」
(プルースト『失われた時を求めて』「コンブレー1」より)
それはまったく書物がこうした樹木や
石ころや蝉の抜け殻だということで
魂という言語的構築物が
本の中に閉じ込められ宿っている
それはわれわれが本という物に近づいたとき
何か言語を超えた呼びかけか促しをもって
われわれに働きかける
この本を開きなさい
開いてちょうだい、手にとって
声に応えてきみがそうすると
魂が飛び出してきて
以後、きみとともに生きることになる
きみが生きているかぎり
きみの発話に偏差を作り出しながら
それでわかったのではないでしょうか
きみはなぜいまそうするような文を記すのか
何を通過し
何に呼びかけられたのか
文学とはそういうことだ
次はどこに行きますか