犬探し

管啓次郎

犬がいなくなった
夕方の中を名前を呼びながら探した
マリンチェ、マリンチェ
「どこにいるの」というほど空しい言葉はない
その言葉が届く距離にはいない
答えられる場所にはいない
そもそも人の言葉がわからない
夕方の季節がどんどん
移り変わってゆくのがわかる
歩くぼくの周囲で
紫色の光にひたされた夏から
地面にびっしりと霜柱が立つ冬へ
くるぶしが埋もれるほど銀杏が積もる秋から
ダフォディルが群衆のように笑う春へ
抜けた首輪を紐先につけて
ぶんぶん振り回しながら歩いている
それは「牛唸り」のような低周波の音を立てて
草葉の魂たちに耳をそばだてさせる
名前を呼ぶと悲しいので
本当は呼びたくない
でも犬が気づかないといけないので
また呼びつづけている
マリンチェ、マリンチェ
そろそろ住宅もつきて
教会のメタセコイアだけが帆船の
マストのように聳え立っている
おまえはどうしたの
橋をわたって都会のほうまで行ってしまったのか
その橋には路面電車が車と一緒に走り
子供にも犬にも魂にも危ない
夕方の光がどんどん鈍くなる
雲の輪郭だけが虹色に光を発している
犬たちは境界をよく悟る
愛想よく知らないサーカスについていっても
橋をわたることはなかったし
製材所のむこうに行くこともなかった
水の匂いでもおがくずの匂いでも
犬たちには壁のように感じられた
ぼくにこみあげてくる悲哀は
まるで逸れた投球が近所の家の
窓ガラスを割ったときのような悔恨
絶望的な気分で息を切らして立っている
するとぼくの激しい息づかいに合わせるように
ハーハーという犬の呼吸が足下で聞えるのだ
見るとつやつやした黒い短毛の犬が
ぼくの脇に立って一緒に橋を見ている
橋がかかる水面を見ている
夕方を見ている
それはマリンチェだ
おかしいねえ、どこに行ったんだろう?
とぼくはマリンチェに声をかける
行ってみるか、遠くまで、探しに
マリンチェがしずかな目でぼくを見上げる
ぼくは切羽詰まった気持ちで
夕空を傘のように開閉している
それから駆け出した
牛乳屋の前を通り
小学校の校庭をつっきり
お寺の山門を逆に抜け
何もない野原へ
「どこにいるの、どこにいるの」と
ぼくは囈言のようにくりかえす
マリンチェはわんわん吠えながらついてくる
探しているのはおまえだったのに
おまえがついてくるのをおかしいとも思わない
もう何を探しているのかもわからないまま
ぼくは野原に捨てられていた赤い車に乗る
鍵はついたままだ
それどころかエンジンがかかったままだ
車を運転したことがないので
どうすればいいのかわからない
おそるおそるアクセルを踏んでみるが動かない
「ハンドブレーキを解除するんだよ」と
助手席のマリンチェが人間の言葉で指示する
走り出した
地面はうねる丘を行く舗装道路になっている
車なのだがスピードが恐いので
走る人くらいの速さで無人の道を行く
この先の峡谷にかかる橋をわたれば
そこは帰ってきた者のいない土地
「あっちまで行ってみようか」と
ハンドルを握りしめたぼくは
緊張して前方を見つめたまま
マリンチェに声をかける
「いかないでか」とマリンチェが
いったのがなぜか理解できた
だがこんどはそれはヒトの言葉ではなく
犬の遊び吠えなのだ
このまま突っ込んでやれ
「だいじょうぶだよね」
マリンチェがまた答えるように短く吠える
なだらかな下り坂の先は鉄橋
「探しに行くんだ」とつぶやいて
ぼくは初めてアクセルを
ぎゅっと踏み込む