片岡義男の文章によって体の中に呼び起こされる感覚、それがいちばん重要だった。風に吹かれたくて、彼の小説を読む。
「心をこめてカボチャ畑にすわる」は、忘れられない短編だ。アメリカの「荒野をまっすぐに抜けていくハイウエイ」沿いにある、「ガスステーションと休憩所と簡易食堂を兼ねたような店」の、何気ない1日が描かれる。何人かの客が訪れ、そしてみんな出発していく。店を任されているネイティブアメリカンの少年が、必要な業務を静かにこなしていく。荒野にポツンとある店だから、客のリクエストは多様だ。だから、彼も多岐にわたる依頼をある程度は受けられる力を持たなければならない。誠実に対応しているうちに、大抵の事はできるようになってしまった、そんな感じが好ましい印象を残す。
「陽ざしとか雨とか、空や海の広がりを相手にするとき、人は、気持ちをせまく湿らせたままでいると、役立たずになってしまう。乾かざるを得ないという状態がながくつづけば、ごく自然に乾いていることが当然になってきて、ぼくとしてはそのような世界がいちばんいい。」文庫版『波乗りの島』のあとがきにそんな言葉があるけれど、「心をこめてカボチャ畑にすわる」もまさにそんな小説だ。取り立てて事件が起きるわけではないけれど、少年が暮らす風景に身を置いてみるだけで十分な小説なのだ。文字を追って、行ったことのない荒野に身をおいてみる日常とは違う空間で呼び起こされる体感を味わう。
病気で寝たきりの少女が、モーターホームで旅する途中に立ち寄って話をしていく。開け放った後部ドアにもたれて、少年はベッドに横たわったままの少女と話をする。「こんな広々とした素敵なところで毎日がすごせるなんて、風が、素晴らしい」と、少女は言う。同じくらいの年齢の、でも全く違う人生を送る2人がふと言葉を交わす、そのそばに吹いている風。ベッドに横たわったままの体に心地よいと感じる風が吹いている。
こんな時の風を、私はどうやって感じているのだろうか。以前は、自分のなかから、最もふさわしい風の記憶をひっぱり出して、体に蘇らせているのだろと思っていたけれど、純粋なる想像のなかの体感なのではないかと思うようになった。たぶん、文字が、想像のうちに身体的な感覚をはっきりと呼び起こさせているのだろうと思うようになった。何度でも、フリーズドライのコーヒーに湯を注ぐように、物語を読むたびに、風に吹かれることができるのだから。
片岡義男の小説を読むことは、抽象的な経験だけれど、かなり肉体的な経験でもあるのだ。同じ作品を繰り返し読んでも、あらすじがわかっているからつまらないという事にはならない。
こんなことを考えていて、これは好きなロックのシングル盤を繰り返し聴くことに似ているなと思った。繰り返し繰り返し、そのたびに新鮮な感動を持って聞くことができる特別な曲。そのたびに拓かれていく感覚。
「ぼくはプレスリーが大好き」のなかに、ポピュラー・ソングをただ聞き流しただけに終わったのか。それともロックを、自分のなかに入れることができたのか。ロックンロールに出会えなければそれまで、だった。という意味のくだりがあるけれど、片岡義男の文章によってもたらされた感覚について思う時、ちょっとおおげさだけれど、出会わなければそれまでだった、と思ったりする。