犬狼詩集

管啓次郎

  73

つつじとポピーと蒲公英の共存が異様なほどはなやかな朝だった
タンポポがひたひたと水に浸る野原の夢をよく見る
心にいくつかのrefugeが必要だとは以前から提議されていた
鳥たちが大勢集まってくれたがその名も言葉も知らない
日没を迎えて西の稜線が星のようにくっきりした
創造が可能で創造が瞬間の中にあるなら今がそれかもしれない
砂浜にむかって砂が打ち寄せる海岸を乗組員たちはめざしていた
木造の小屋を中から突き破って樹木が孔雀のように羽をひろげる
瞬間と瞬間が断絶してそのすきまで何かが生まれるらしかった
砂にむかって砂よ上陸せよ砂のための城砦を自己実現してごらん
詩はreminderでありいつも何かを思い出させていた
日本語の構文が少しずつまちがった英単語を海綿のように吸収している
母になりすますとき私は普段とは別のアクセントで話していた
いつもあちこちの路上の言語を適当に組み合わせて使っている
かれらの大きな問題はこのあたりの地名を知らないことだった
何もないと見なしていい地点だって実在と意味とオゾンで充満している

  74

「見せかけの自伝」という題名のラテン語訳をラテン語教師に相談した
黄砂が降りそそぐ街角で道路は勝手に波動する
鉄道の遅れはロバが線路を歩いていたせいだった
セント=キルダの砂浜ではアザラシに犬が吠えている
海進はさほど昔のことではなく水はここまで来ていた
小島だった小高い丘にかりそめの祭壇を作る
名前を概念化し表情を図案化した
花粉の団子を与えて抵抗力をつけさせている
花を欠くとき花柄のシャツを着て花の季節を追悼した
タロとヤムとコンニャクイモの区別を地元の中学生に教わっている
指をそのまま彫り出して指環に見せる技が開発された
どうしよう足が痛くて今日はもう歩けない
3ピースの少女ロックバンドが驚くべきデビューを果たした
花粉を床にしいて黄色い光を部屋に充満させる
同期を失ったテレビにときどき過去が映っていた
木製のはきものの花緒は白黒紅の三色で染められている

  75

ミントが香る小路に逃げこむようにして曲がった
衰弱した巨大なマスチフが寝たまま尾を振っている
幾何学的にはこの都市の地形はいくつかの円錐体だった
道標のようにコーヒー豆を落としながら進む小学生がいる
光の髭に包まれた篤学の長老たちだった
朝をライムのようにスライスして窓ガラスに貼りつける
午前七時にモーリタニア人とスペイン語で挨拶を交わした
十分な上昇気流がなくて砂埃が舞い立たない
メスキートの藪からたぶん鶉が飛び出した
鉛筆を削るためにきみと物置小屋に入る
このシャツを最後に着たのは二〇〇二年夏至のパリだった
ある名は何度も口にされ、ある名はけっしてされない
“A perplexing question” と円卓が突然にしゃべりだした
ヘブライ人の問いには輝くてんとう虫を対置する
この店の裏に鹿が来ることもあると女主人に聞かされた
掌の跡をそのままで崇拝の対象とする宗教があるようだ

  76

ポラロイドで身の回りのものを撮りコラージュを作っていた
心の崩壊と統合はつねに同時に起きている
コーヒーカップの赤が妙に鮮やかに見える朝だった
電車の窓ガラスにオレンジ色の口紅で女が長い線を引いてゆく
Over the rainbowという想像力が恐ろしくて震えたことがあった
神にフィルムはなく精霊にフォルムはなくかれらはすべてを忘れる
津波の動画を百一回くりかえし見たとき記憶の組成が変わった
つながりが見えない語と語の間に螢のような存在が住みつく
土地の「遠さ」を忘れることをみずからに禁じた
あの哲学者は州間高速道路でも方角を見失うらしい
未舗装の道を五時間走ってやっと村に着いた
教会の奥の祭壇から声が聞こえても絶対に見ないほうがいい
経験が見出した法則以外は空論にすぎないと先生に叱られた
雨が上がって二時間してやっと飛行が可能になる
虹の出現は予測可能だがそれでも虹を見ずにはいられなかった
悲しみを灰色と呼ぶのは間違いでいつも虹と希望の色をしている

  77

水溜まりの泥色の水面に古代と昨日が同時に見えたようだった
海の清浄に比べてなぜか沼にはいつも不安になる
自分に投錨地があるとしてそれは現代のうちに探すしかなかった
自然遷移で森林化するより早く虹の下まで逃げてゆく
クーガーマウンテン以前のおれなんておれですらなかった
皮膚を刻むことでかれらは自我を表面化する
燃えるスカラベを掌に載せて森のはずれに立っていた
スプーンからスープの表面へと稲妻がバチバチ飛ぶ
「十代終わったんだなあ」と早朝の路上で晴れやかに叫ぶ娘がいた
アサイの果汁の色のドレスをずっと探している
詩を救出するのはいつも動物の不意の出現だった
視野の端から端まで光が何度も往復する
台風がこれから通過する都市を一歩も出る気がなかった
巨大な藍色の瞳の奥で星たちがまたたいて見える
コップ半分以下の排気量であんなにスピードが出るなんてと驚いた
目を慣らす訓練が必要だがそれだって脳の問題だ

  78

Blade runner といっても刃の上を俊敏に走ってゆく人ではなかった
切断された脚の代わりに独特なばねを使って彼女は走る
ボルトとホイペットの競走では圧倒的に後者が速かった
蓮の葉をわたる競技では誰(どの動物)が勝つかを賭けてみる
鉄道員だった父親にベラクルス州のすべての駅名を教わった
標高と気分の関係を彼女はいつも正確にモニターしている
フラメンコを踊れなくて裸足でフォックストロットを踊った
肩越しに梅雨空とスカイツリーが見えてついクリスマスと破滅を考える
参会者たちがメビウスの環のスナップ写真を撮りまくっていた
アメリカ軍のヘリコプターが頭上を無音で通過する
韓国とペルーのコーラの味の違いを議論する人々がいた
すべてがメキシコに救われるときわれわれは死とも和解する
おれの仕事はひとつの場所に留まることで初めてなされると友人がいった
「火星人」が到着して「すばらしい、珍しい」と感嘆を隠さない
通信の不思議に私たちは心を燃焼させた
私の最終的な単語をWhy?として本日の挨拶を終える