オチャノミズ(その3)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

ギターを売る店はよく覚えていて、どの店も案内してもらわなくても行けるくらいだ。10年ほど前ギターを修理してもらったカワセという店などとくによくわかる。店主は相変わらず愛想がいい。ただ髪に白いものがふえたことと、動作に機敏さが衰えたことに時の流れを感じる。彼の方ではわたしが誰だか覚えていないに違いない。何百、何千という客がこの長い年月、日々入れ替わっていったことだろうから。

ショーケースの中には高価でまぶしいようなギターがいくつも並んでいた。正札の数字についているゼロの数は数えたことがない。最初の数字をぱっと見ただけで値段がわかるから。円というのは数えやすい通貨だ。何年も前から円はわれわれ貧乏人には垂涎の的だったのだが、世界中の投資家にとっては一層垂涎の的であろう。

「あれ見ろよ、100枚以上だぜ」わたしは友にささやく。とても自分の手に届くものではない。100枚どころか20枚ですら考えられない。枚が何かって、マン、つまり万札のことだ。

50年代のものかそれより古いギターはアメリカから買い占めてきたものだ。日本というのはこういうところだ。ギターだろうと古いジーンズであろうと、ほとんど全部を買ってきて、今ここで見ているようにショーケースに飾っている。

弦とボディとからは実に美しい音色が響く。ボディの木が硬いのはいいギターの証である。歳月がたつほど木はさらに乾燥してくるが、それがまたギターの価値であり値段でもあるのだ。

「あれはぼくとおない年くらいだな」わたしはユーゾーさんにつぶやく。
「ぼくはもう何年も見てるよ」と、彼は眼を輝かせてささやく。いつもの笑顔で。

朝10時に目覚ましをかけてここへやってきたのだ。できるだけ多くの時間をここで費やしたい。日本では、たった一ケ所に来るだけで1日が終わってしまう。

ギターを売る店は30軒以上ある。全部に入る必要はない。10軒ですら無理というものだ。いずれにせよ、あの高いギター、あれが自分のほしいものなのだ。でもそれを買う、という意味ではないが。けれどもそれが自分の欲求でありこころの奥底にある希求なのだから、今のこの状態は、欲求を刺激して全身から瞳に至るまでを湧き立たせているようなものである。

日本へ来るたびにわたしはこの街へ来ている。大して買うものがなくても何かしら買い物をする。少なくともギターの糸とか、ピックやカポタストとかを。アメリカのギターのほかに日本の古いギターでもいいものがあって捨てがたい。知っている限りでは初期の日本のギターはアメリカのものをコピーして作っているからだ。日本というのはまずコピーから始めて徐々に追い越し、ついには先頭に立っている、そういうところがある。