かかしの神

管啓次郎

始まりはふかふかしていた
草が絡み合った地面を踏むと
踏んだ足がそのまま沈み
おなじだけの体積の水が浸み出してくる
存在と水
靴がぬれるのは仕方がないから
足をとられるのに気をつけながら
歩いて行こう
小さな蛙たちがおびただしく逃げてゆく
この野は元は潟
蛇行する川が平野を流れ海に出るそのあたりに
一面にひろがっていたのだ
海水と淡水が入り交じって汽水域となる
小動物を求めて渡り鳥が集い
水際では葦が隠れ家を提供する
いつか、二百年ほど前のことだろうか
人々は大変な努力をもって
川をまっすぐな水路に変え
寒冷地の湿原を水田に変えた
それからしばらく米の時代が続いた
ところがあるとき、数年前
大きな波が土地を洗ったとき
この一帯はしばらく海に戻り
水が引いたあと土地の本来の姿に戻ったのだ。
いまここは濡れた野
冬には白鳥たちが飛来する
南に少し下ったところにある川には
秋には鮭がたくさん遡上する
でももう誰も獲らない
鮭は鮭のためだけに生きる
いまは北の土地の夏で
ミズアオイの小さな花が咲いている
帰ってきた花たちだ
この原をこれから歩いてゆくのだが
どこをめざすのかも
何を探すべきかも
わからない
人を訪ねるのではない、人は住むことをやめたので
ただむせるほどの力がこの土地にみなぎって
何かを育てているらしい
その力を見たい
その現れを見たい。
巡歴は始まったばかりだ
山から猪が降りてきて
新鮮な泥で体を洗っている
存在と泥
猿たちの群れはこのあたりに見切りをつけ
どこか内陸部へと移住していったようだ
ずいぶん広い土地を
隈なく見ようとして
「見えない眼鏡」をかけたまま
ぼくは歩くのだろうか
以前ここに来たときには
コカコーラの自販機が
鮮やかな赤色で
澄んだ青空に聳えたっていた
傾いたまま巨大な自販機が
巨大なコカコーラを売りつづけていた
電源もないのに
清涼飲料を買いにくるのは姿のない人々
透明な缶をプシュっと開けるたび
ものすごい量の時間が渦潮のように流れ出す
自販機は心もないのに一所懸命お礼をいう
ありがとうございました
「さすけねえ」
そのやさしい言葉が胸に響いた
コーラを飲み干して
しばらくぐるぐると歩くうちに
方向も時間も見失ってしまった
この野は心を混乱させる
考えの糸口も見つからない
何を失ったのかさえ忘れてしまった者には
失ったという感覚も残らない
冬のモントークの雪が降る砂浜のように
記憶がどんどん書き換えられて
青空のようにはかない気持ちだけが残る
失われた町すら失われて
ここには初めから何もなかったのだと
みんなが考えるようになる。
だがそれをいうなら
何もなかった初めなどなく
いつもこの場所はみたされていたのだ
分割不可能な生命の
大きな心に
数え上げることのできない
あらゆる種が作る社会に。
歩くことがそれ自体としてわからなくなったので
ぼくはいろいろな動きを試してみる
爪先立ちでくるくると旋回したり
抜き足、差し足、猫の歩みをまねたり
少しでも乾いたところを探して寝そべったり
五体投地を試みたりもする、目的の聖地もないのに
するとその先に四、五頭の牛が出現して
壊れたコンクリートの橋桁を使って川を渡ろうとしている
声をかけると耳をぴくぴくさせるが
それ以上にこちらに興味をもつことはない。
ふと見上げると水平よりはかなり上のほうを
一艘の船が進んでいくのが見える
十人くらい乗れそうな船室のついた釣り船だ
周囲の野よりもかなり高い水路を行くので
ありえない角度になる
水着姿でサングラスをかけたオランダ人らしい
一家が船から手を振った
考えてみればいまいるこの野の標高は
たぶん海面よりも数メートル低い
われわれは海の底で生きてきたのだろうか
この土地をみたすすべての植物や動物とともに。
無理をしていたことはわかっているんだ
としゃがれ声が聞こえた
見ると一匹のひきがえるが見上げている
ちょうどいいところで出会った
図書館があったのはどこでしょうか、とぼくは訊ねた
図書館はもうないよ本はすべて流された、とひきがえるは答えた
何も残っていないのですか
残っているのは不動産管理士試験問題集とかそういうのだね
土地の昔のことを知りたいときにはどうすればいいでしょう
かかしに会いに行くんだね、とひきがえるがいった
あの人は動かないけどすべてを知ってるよ
すべてを覚えている人だ
かかしはどこにいるの、とぼくは訊ねた
それくらい自分で探しなよ、とひきがえるがいった
ひきがえるが五本足(小さな腕が余分)なのにいま気づいた
では行ってみますとぼくはいって
すでに草花が埋めつくしている線路を歩いて行くことにした。
野から町に入るが誰もいない
アスファルトの道路に寝転がりわんわん吠えてみる
一頭の牛を引き猿の面をかぶった男が
映像のように映画館の角を曲がるのが見えた
閉まった新聞店のガラス越しに
四年半前の新聞が大量にあるのが見える
犬たちの鳴き声がするが姿は見えず
鳥たちのさえずりも聞こえるが姿は見えず
青空がひろがるがその空が本物かどうかもわからず
潮騒が聞こえることすら壮大なトリックみたいに思えてきた。
また町を離れて野にむかう
「町」と「野」の文字に隠れている「田」を思う
もうここに区画はないのだから
かかしもいないのではありませんか
ぼくはかかしの役割を考えた
カラスやスズメを無言でおどかすのか
Boar や deer やbear にここは人間の耕作地だと語るのか
すべてを風の噂に聞きすべてを覚えているのか
自分自身はどこにも行かず、ただ立ちつくして
一年のめぐりを知り、そのサイクルを重ねて。
だがどんなに歩いてもかかしは見つからない
自分が住んだわけではないこの土地から
ぼくは無知というラッピングによって隔てられている
何でも知っているかかしはどこにいるのだろう
だんだん空が曇ってきた
季節はめまぐるしく回っていまはもう冬
心の中に降り始めた雪が流れ出し
空の端から端まで雪が降りしきっている
地面がうっすらと白く覆われて
そこを元気なバッファローたちの群れが走ってゆく
焦茶色の山のような体を
子犬のように弾ませながら
まるで遊ぶように行ったり来たりする
あふれるようなよろこびだ
太陽がこぼれてきたようなよろこびだ
かかしの神はまだどこにも見つからない