Red River Valley

管啓次郎

起きなさい、目を覚まして
心があの洞窟を思い出す前に
いま起きれば、ぼくの部屋を起点とする
風の旅にきみも乗ることができるよ
風は空気の切れ目を上手に使って
しじみくらいの大きさの小さな蝶をひらひら飛ばす
起きてごらん、水のように疲れた太陽が
葉叢ごしに三日月型の光をたくさん投げかけている
こんな時間は緑色の海流の中を
ゆったりと泳ぐ海亀のように貴重だ
それなのに sleepy head きみの心が
あの洞窟に引き寄せられているのがわかる
きみの瞼のぴくぴくする動きでわかるんだ
きみは掌をかざすようにして
あの水しぶきと光を避けているつもりだね
あの心細い洞窟の
むこうの端に見える光の点をめざして
あのときぼくらは水音の中を歩いた
あのころ世界は途方に暮れていた
あるところから先は全身にふりかかる
水しぶきを避けることができない
玄武岩の洞窟の天井から水のカーテンが落下して
洞窟の床がごつごつした川になる
すさまじい水音が心をおびやかす
降りしきる雨だ、空もないのに
流れる川だ、光もないのに
岩の壁に身を寄せながら
暗い川のほとりを歩いていった。
すると水音も気持ちもガムランのように高まって
心が蒸発するほど熱くなる
しぶきが飛んで人の頬も髪も濡れる
やがて水の皮膜のむこうに
小さく乾いた光の土地が見える
激しい岩に乱反射する小さな、でも何という眩しさ
でも今ここはまだ水の邦で
水音に音声をすっかり掻き消されながら
魂と心がざわざわと会話する
それを身体を代表して目が見ている
存在を代表して心が聴いている
どんなさびしい群衆がここで暮らすのだろう
体験したことのない造形に
すべての行方をまかせながら。
炎のように冷たい水が踝を濡らして
膝にも太腿にも水しぶきがかかり
ただ小さな光の点をめざして歩いてゆくのだ
轟音の中を
どんな通過儀礼を経ても
どんな加持祈祷を準備しても
すべての実効性と実定法が失われる
そんな場所だった
きみがそこに何を見たのかはわからないけれど
きみの心はそこをなつかしがっている
きみの呼吸が速くなり
両脚がゆっくりと水を掻くような動作をすることでもわかる
帰っていくの? 
どうしても?
それが世界に対する意地悪な否定だとしても?
起きなさい、目を覚まして
この紫色の空と鳥のように紅い花の配色をごらん
いまそれを見て記憶しなければ
次の千年もガラス玉のように生きるしかなくなる
空から火山灰が降るのを待望しつつ
生の意味を見失いつつ
ほら、犬たちが吠えた、起床の呼びかけだよ
夢に濡れた足を乾かして
まどろみから出ていく時間だ。
起きなさい、でもきみは起きないので
眠ったままのきみを無理やり立ち上がらせて
ぼくの部屋を起点とする風に一緒に乗ろうと思ったけれど
もう遅い、あの洞窟に引き戻されてしまった。
わかったよ、では歩いていこう
あのときとまったくおなじように
洞窟がはじまる
ここから先は足場も水の中
地中の川を歩いていかなくてはならない
おまけにきみは眠っているので
手を引きつつ四つの足下を確認しなくてはならないんだ
水音はいよいよ激しい
いったい何がそんなに大きな音を
水の分子が岩の分子にぶつかったところで
そんなに大きな音が出るものだろうか
水分子の塊がものすごい量なので
それが落下して岩面にぶつかるとき
水分子の塊と同量の空気がその場所を逃げ出してゆく
その際に空気があげる悲鳴なのか。
それにともない場所の霊たちが
脱出できない自分の悔しさを表そうとするのか。
きみの眠りが解けない分
ぼくは驚くほど覚醒している
足をとられないように細心の注意を払いつつ
何かにすがるように岸壁に右手をふれながら
左手できみの手を引きながら
暗い洞窟を歩いていく
その端の小さな光の点がだんだん大きくなって
出口近くの水のカーテン越しに
外の風景がうかがえる場所まで来た
いつか見た、あの水の皮膜だ
その先はすぐ外の世界
切れ目なく降り注ぐ水のカーテンを前に
覚悟を決めなくてはならない
さあ、走ろうか、きみとぼくは
目を覚ましてよ
でもきみは曖昧に頷くだけ
ぼくはきみを引く手に力をこめ
右手を額にかざして水を避けられるようにして
ともかく走り出す
光にむかって
外にむかって
走るといってもそれは極端なスローモーション
一瞬ごとに水の刃がぼくらを面的に切断するようだ
痛い、痛い、冷たい、冷たい、
でも外がぐんぐん迫って
水のむこうの映像が現実になる
抜けた!
もう大丈夫
速度をゆるめてずぶぬれの体のまま
ふらふらと洞窟の出口に到達した。
息が切れてどうしようもないが
なんという安心感、爽快感
そしてごらん、これが光の世界だ
洞窟の出口は崖の中ほどのテラスにあって
そこからは岩山の地帯を見わたすことができる
こんな景観は見たことがなかった
険しい岩の頂がいくつか
その合間の平地は濃い緑の森に覆われ
そこに細いけれど強烈な輝きのある川が流れている
ぼくらをスライスしようとしたさっきのあの水も
この川に流れこんでいることは明らかだ
人の気配はまったくない
ついにここまでやってきたのかと思うと
心から充実感がこみあげてくる
わかったよ、ここにやってくるために
いつかの旅をつづけるために
きみはずっと眠っていたんだね
風が吹いてきてTシャツとジーンズから気化熱を奪うので
たぶん気温はかなり高いが寒いほどだ
ケーン、ケーンと啼くのは雉子のような鳥だろうか
アイオーンと遠吠えで呼び交すのは山犬だろうか
それ以外には物音のしない
しずかで美しい邦だ
空の低いところで燕が群舞する
空の高いところで猛禽が滑空する
ぼくらの目の前にはしじみのような
小さな蝶がひらひらと舞っている
なんだ、ぼくの部屋を起点とする風に乗ったとしても
行き着く先はおなじこの場所だったんだ、とぼくは悟る
それで誰もうらむ気もなく、うらやむ気もなくなった
ただこの場所でこの光この風を楽しんでいる
これからどうするかは考えることもできない
おなじ地点にいるのにさっきより標高が上がった気がする
目に見える土地の範囲はいよいよ広がって
ここはもう成層圏かもしれない
ぼくは歌をうたった
Red River Valley
赤い川ではないけれど、この谷間のために
険しい岩山に囲まれた、この土地のために
すると眠っていたきみがいつしか声を合わせて
眠ったままおなじ歌をうたいはじめるのだ
おはよう、やっと目が覚めた?
ここは新しい土地、もっとも古い風景だ