おいしそうな草

若松恵子

吉祥寺に移転したクレヨンハウスの地下には女性の本のコーナーがあって、青山の頃のようにはまだフロアの方針が固まっていないようなのだけれど時々覗いてみる。

5月のはじめに、蜂飼耳(はちかい みみ)のエッセイ集『おいしそうな草』(岩波書店)を見つけて、2014年に出た本なのにちっとも知らなかったとさっそく買ってきたのだった。『おいしそうな草』は、岩波書店の雑誌「図書」に連載した24編に、書き下ろし3編を加えて編んだものだ。連載時のタイトルは「ことばに映る日々」。「生きる日々のなかで、読む言葉、出会う言葉、思いがけず受け取ることになる言葉。詩や小説や随筆、さまざまな作品が落とす影に、はっとする瞬間。あっというまに過ぎていくあれこれを、書きとめ、見つめ、また書きとめる。そんなふうにして生まれてきた本だ。」と、蜂飼は、あとがきに書いている。ふと揺れ動いた心、その目には見えないものを言葉に定着して(映して)、形あるものとして差し出してくれるところに彼女の文章の魅力がある。しかもそれは、川原でみつけたすべすべした美しい石のように確かな手触りをもって、読む者の心の手のひらに乗せられる。

玉手箱を開けた浦島太郎は、その後どうなったのか。「満ち欠けのあいだに」では、様々なバリエーションを持つ浦島伝説について語ることと並行して、月食を眺める夜の時間が綴られる。
「芝」では、八木重吉の「草をむしる」という詩が紹介され、蜂飼が好きだというこの詩について、「座りこんで草をむしった記憶のすべてが束になり、この詩に吸い込まれていく。」と彼女は書く。八木重吉の詩に続いて語られるのは、子どもの頃によく遊んだ海岸の近くの公園の思い出だ。その公園には冬でも青々としていた芝があって、その上にもう走らない電車の車両があった。ある日子どもたちによってむしり取られた芝が車両の床いっぱいにぶちまけられるのを見る。「あたりいっぱいにふくらんでいく、あおあおとした香り。このまま走りだせばいいのに。けれど、もちろん電車は動かない。困ったように、じっとしている。」と彼女は書く。子どもの頃に見た忘れられない光景は、束になって彼女の文章に(言葉に)吸い込まれていく。

唐突に別の物語が語られ、でも彼女独特の脈絡でひとつの物語に編まれていくところ、そのイメージの重なりも彼女の文章の魅力のひとつだ。詩人である蜂飼耳の独壇場ともいえる。それを読む私の認識も深く耕される思いがする。

本の題名となった「おいしそうな草」は、言葉を持つ人間とはどういう存在なのかについて語っている。西脇順三郎の詩を引用しながら蜂飼はこう書く。「言葉が、人間とその他のものを区分して、限られた生を言葉の灯りで生きるようにと、うながす。沈黙の日、更地に似た日にも、やがて、草のように言葉は生えてくる。古代の人たちは人間を青人草とも表わした。草と人は近い。牛や馬、羊ならば思うだろう。おいしそうな草、と。生きものは、草を掻き分けて進む。生い茂るものたちのなかを歩いていく。」
いつまでもそばに置いておきたいと思う一章だ。