久しぶりに寄った神保町の岩波ブックセンターで『きみが死んだあとで』(代島治彦著 2021年6月晶文社)を見つけた。街の本屋さんでは見かけなかった新刊だ。今年の4月に公開された同名のドキュメンタリー映画の、3時間30分の中には収まり切れなかったインタビューを掲載した本だ。東京での上映を見逃していて、先に文章で出会うことになった。
「きみ」とは、1967年10月8日、ベトナム反戦のデモの中、羽田の弁天橋で命を落とした山崎博昭さんのことだ。彼は当時18歳、京都大学の1年生だった。山崎が通った大阪府立大手前高校の卒業アルバムのなか、社会科学研究部の集合写真に写っているメンバーのほとんどが、羽田のデモに参加していた。友人たちのその後の人生を描いたドキュメンタリー、「18歳のきみ=山崎博昭が死んだあとで、彼らはいかに生きたか。きみの存在は、彼らをいかに生きさせたか。ある時代に激しい青春を送った彼ら=団塊の世代の「記憶」の井戸を掘る旅」が『きみが死んだあとで』だ。
この作品について初めて知った時に、今なぜ学生運動なのかと思った。ヘルメットをかぶって闘っている人たちの映画、代島氏自身が経験してこだわってきたテーマによる私的な回想なのだろうかと思った。しかし、そういう映画(本)ではなかった。
1958年生まれの代島氏は、1967年から70年の学生運動に直接参加した世代ではない。しかし、子ども心ながらに闘う上の世代に共感を覚え(かっこいいと思ってしまい)生き方に影響を受けてしまったのだ。
「もしもぼくが団塊の世代に生まれたとしたら、どんな青春を送っただろうか。もしもぼくが1967年10月8日に羽田・弁天橋で死んだ18歳の若者の友だちだったとしたら、どんな人生を歩んだだろうか」
映画『きみが死んだあとで』の冒頭に掲げられている字幕だ。そして、本では「もしも10年早く生まれていたら、『きみが死んだあとで』に登場する14人のように「異常に発熱した時代」にぼくは絶対に巻き込まれていただろう。いや、巻き込まれていたという受動態ではなく、きっと「巻き込まれたい」気持ちを育てていた、少年時代から。」という記述が続く。代島氏のように思う者にとって、当時の経験者の記憶と今の思いを聞くことは、とても興味深い事だ。今の時代にこの映画が持つ魅力というものはここにあると思った。
インタビューを読むと、命を落とすことになった山崎氏も彼のように運動に参加した同級生たちも決して特殊な人たちではなかったという事がわかる。彼らは戦争に加担したくない、社会制度を変えたい(奨学金を受け取りに行った窓口で会った時に「やっぱり貧乏ってことかな」と闘いの動機を語った山崎博昭の思い出を岡龍二が語っているのが印象的だ)という素朴な思いから運動に参加して行った人たち、見過ごさずに何とかしようとした人たちなのだ。活動家ではなく、生活者として生きている今も、彼らの考え方が当時と変わってしまったという風にはあまり感じないところに希望を感じた。
14人にインタビューしながら代島氏も自身の事を見つめることになる。本ではインタビューの章の間に、代島氏自身の回想が綴られる。自分はなぜ、「団塊の世代」の運動する姿に憧れ、そういう価値観を自分の中につくっていったのか。本の最後に、秋田明大氏(元日本大学全共闘議長)を訪ねてインタビューする章が加えられている。そして、答えは出ない。絶対正しい答えなどない。みんなそれぞれの人生を生きているだけなのだ。
あとがきに「まだこんなルンペンみたいなことをやってるんかい!」と叱られるのを覚悟のうえでこの本を亡き母に捧げるという一文がある。代島氏にとってこの作品は、良かったのか、悪かったのか明確な答えが出ないとしても、これが自分ではないかと確かめる旅にもなったのではないかと思う。
この本で「10・8羽田救援会」の活動を知ったのは、私にとっての収穫だった。羽田のデモで逮捕された学生を支えるために、家族でも友人でもない一市民として差し入れをしたという。「18歳の未成年者が逮捕されていたので、こころにもない自白をさせられるのは目に見えるようで、自分の潔白を貫けるように支えなけゃいけない」と考えての事だったという。気持ちが明るくなるようにと白いセーターやショートケーキを差し入れたという。
本を読み終わった後で、映画化のきっかけになったという大手前高校の社会科学研究部の卒業写真を映画の公式サイトで見た。「シェー」のようなポーズをとっている無邪気な姿に胸を衝かれた。RCサクセションのスローバラードの「悪い予感のカケラもないさ」という一説を思い出したりした。近くで上映される機会をみつけて、彼らの肉声を聞いてみたいと思う。