先月末、タイトル名の曲に振り付けたデュエット作品を13年ぶりに再演したのだが、その初演時にも私はその上演のいきさつを『水牛』に書いていなかった。というわけで、今回は13年前と今年の両方の公演について書き残しておきたい。
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舞踊:冨岡三智、藤原理恵子
音楽:七ツ矢博資『すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~』(1999)
●初演
日時: 2008年8月7日
場所: Anjung Seni Idrus Tintin-Bandar Seni Raja Ali Haji(インドネシア・リアウ州プカンバル市)
演奏: 録音(2005年)
作品タイトル:「Water Stone」
公演名:第6回リアウ現代舞踊見本市(Pasar Tari Kontemporer VI / 6th Riau Contemporary Dance Mart)
主催: ラクスマナ財団(Yayasan Laksmana)、リアウ州文化芸術観光局
●再演
日時: 2021年7月31日
場所: 大阪市立大学・田中記念館ホール
演奏: 西村彰洋(ピアノ)、中川真(ガムラン)
公演名:『ピアノでできること/できないこと』
主催: 文科省科学研究費基盤B「アジアにおける社会包摂型アーツマネジメントモデル形成と応用」チーム
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(1) 制作のきっかけ
2008年にこの作品を作ったのは、インドネシアのスマトラ島で開催された第6回リアウ現代舞踊見本市に招待されたことがきっかけである。私はこの見本市に2005年の第4回にも招待され、単独作品(本来はデュエット作品)を上演していたのだが、今度は単独でないものを作りたいと思ったのだった。音楽については、インドネシアで上演するのだから、日本人の作品を使いたい。私がインドネシア留学するまで所属していた大阪のガムラン音楽団体(ダルマブダヤ、当時の代表は中川真)では、現代音楽家に委嘱した作品を積極的に演奏していた。そのレパートリーの1つであった七ツ矢博資氏の作品を使いたいと思って先生に連絡を取ったところ、意図していた作品には録音状態の良いものが
ないという。その代わりにと逆に提案されたのが、この『すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~』だった。インドネシアを意識した曲というのも提案理由だったのではないかと思う。
パートナーとなる藤原理恵子さんとは、2003年にダンス・ボックスの公演で知り合った。各ダンサーがそれぞれ自作を発表する場である。その時から気になっていたダンサーで、その後も彼女のワークショップに参加するなどして緩やかにつながりがあり、一度作品制作を一緒にやってみたいと思って声をかけたのが始まりだ。
ただ、リアウで上演した後この作品は再演しておらず、藤原さんとの共同制作もこの時だけだった。2020年1月、古い記録を整理していた時に、このリアウでのビデオが見つかった。それで久々に連絡を取って、まだ予定はないけれど再演してみたいと持ち掛けたのだった。そう言っている間にコロナで緊急事態宣言になって練習場所がなくなったり、私も五十肩になったりして中断もあったけれど、タイミングを見て練習を重ねている間に、生演奏で上演での上演という企画がもたらされたのだった。
(2) 初演版
2008年の上演では七ツ矢氏の曲の前後に虫の声の録音をつなげ、タイトルも”Water Stone”と変えている。別の音を足したのは、見本市の規定の上演時間がやや長めで、七ツ矢氏の曲(約15分)だけでは短いと感じたため。また、だだっ広い会場の中で七ツ矢氏の曲の雰囲気に入っていくための部分が欲しいと感じたのもある。一方、2021年は西村さんがピアノ・リサイタルの中で七ツ矢氏の作品を演奏するのが主目的なので、虫の声はカットした。
“Water Stone”のシノプシスやコンセプトについては、当時、現地の新聞に掲載されたので(私が見本市に出したシノプシスとインタビューが元になっている)、それを引用しよう。
● 2008年8月8日リアウ・ポス紙記事より
…桜の国・日本から来た舞踊家・振付家の冨岡三智が「ウォーター・ストーン」という題で上演した。
三智は単独での上演ではなく、もう一人の人と一緒に上演した。「風が吹き、石が呼吸し、水が流れる、太古の昔から」とある。
三智が呈示した動きはゆっくりとしているが、内に秘めた強さがある。白い布を身体から垂らし、ピストルを手にしている。三智の動きともう一人の動きが入れ替わる。その女性が倒れこんだとき、もう一人が激しくすばやく動いたからだ。三智の作品は2人が入れ替わり、もう一人が白い布を巻いて、ピストルを手にしたところで終わる。
● 2008年8月9日コンパス紙全国版記事より
冨岡と藤原は観客の想像力をさらって、2つの自我の強さを意識させた。それは混乱と調和であり、つのエネルギーが相補って人生を調和させる。調和は仏像の瞑想の舞いを通じて、一方混乱は激しいコンテンポラリ舞踊を通じて象徴される。
ある時は、一人の踊り手がまるで彫像のように静かに、ゆっくりと移動する一方で、もう一人はあちこちに激しくのた打ち回って自爆する。しかし、ある時点で2人の踊り手は白い布を巻きつけて一体化する。剛柔は対立し得るものだが、しかし1つにもなり得る。それが人生なのだと冨岡は言う。
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2008年の上演だと、虫の声が響くなか舞台中央には私が野ざらしの仏像のごとく座っており、遠景を浴衣を着た藤原さんが横切り消えていく…という情景から始まり、その後七ツ矢氏の音楽が流れ、仏像が揺れ始める。私は1人で踊り始め、バーンという打撃音のところでピストルを撃って倒れ、それと入れ替わるように、強い音と共に藤原さんが客席から舞台に登場しその場を支配する。その後音楽が切り替わると、私は再びよみがえり、私の着ていた布にお互いが巻き付いて結合双生児(シャム双生児)のように一体化したかと思うと互いが入れ替わる。再び虫の声が響くなか、その布を巻き付けた藤原さんが仏像のごとくに舞台に残り、抜け殻になった私が舞台の端に消えていく。曲から静と動、仏陀とピストル、流水と石のような対立矛盾しながらそれらが入れ替わるような禅的なイメージが浮かび、それを2人で形にしていった。
今、これを書きながら気づいたのだが、この時は曲のタイトルの『すれ合う伝統』と向き合うことを私自身が避けていたような気がする。藤原さんに共同制作を持ちかけた時点で、曲名でなく”Water Stone”の構想しか伝えていなかったらしいのだ。曲から受けるイメージを元にして作品作りをしたけれど、曲のテーマを舞踊の形に置き換えようとは思っていなかった。
(3) 2021年版
●今回プログラムノートより
2人のダンサーが創り出す関係性の変化を表現しようと考えた。同じ空間に置かれた無関係な2人は、音楽に突き動かされ、空間の中で拡張収縮していくうちに互いに反応し始める。同調・反発・同化しようとする。ジャワ伝統舞踊がベースの冨岡と現代舞踊がベースの藤原は、それぞれ己の中にあるものに従って動きを生み出す。その己の中にあるものがおそらくは伝統なのであり、互いの反応の中に伝統のすれ合いが生成されるのだろう。
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今回も前の振付のイメージをたたき台にしているのは事実だが、シノプシスをそのままなぞってはいないので、できた作品は別ものと言える。前回は1人の中にあった相反する二面性が入れ替わるというのが(私の)基本イメージで、布にお互い巻き付いていく後半のシーン以外は舞台で絡まないのだが、今回は最初から2人がアイデンティティのあるものとして別個に存在していく形になった。そして、制作過程において『すれ合う伝統』の意味と格闘したのが今回だったと言える。音楽に振り付ける前の段階で、ガムランの音に合わせてジャワ舞踊の歩き方をやってみたり、また藤原さんがよくやっているように山や川など自然の中で2人で動いてみたりして、互いの身体が持っている伝統に近づこうとしたのだった。
私と藤原さんが1枚の布を巻き付けて結合双生児のようになる動きは前回も今回もある。しかし、前回はその布を私が体にサリーのように巻き付けていたが、今回は着用せずに舞台に川の字になるように細長くたたんで置いておくようにした。互いの間にある細胞膜のようなイメージである。横長の額縁舞台だとこんな風に空間を横切る線を置くのは難しいが、会場となったホールの舞台がちょうど客席に半六角形にせり出す形になっていたのは都合がよかった。私としては細胞の中にいるような感覚が保てた空間だった。
音楽はピアノとガムラン楽器(ボナンという旋律を引く打楽器、銅鑼、太鼓)を使い、ピアノは西村彰洋さんが、ガムラン楽器は中川真氏が演奏した。中川氏によれば、七ツ矢氏のこの曲は今までに5回演奏され、中川氏は全回ガムラン演奏に関わっていると言う。生演奏で踊るのは録音で踊るのとは全く違う体験で、楽器や演奏者によってここまで違うものなのかと改めて思い知る。録音ではピアノの音がもっと強くて衝動が溢れていたように私は感じたが、西村さんのピアノはそんなにガツンとこない。彼は、それよりも響きを大切にしているとのことだった。だから、録音を聞いて作っていたイメージが結構変化した。たとえば、ピアノの音の衝動に突き動かされていた箇所は、静かに抑圧されるイメージへ。引きの強い音に聞こえていた所は、星屑のようにキラキラと音が輝いているイメージへ…。リハーサルの時に話し合っていたら、私と藤原さん、西村さんと中川氏と、音に対して抱いているイメージは四者四様で、意外と違うものだと感じた。
まだアンケートを読んでいないので、どういう風に観客の目に映っていたのかは分からない。が、13年ぶりに旧作に向き合い藤原さんと共同制作したことで、様々なことを自分なりに振り返ることができた。そして現代的な作品を生演奏で踊れた経験は貴重だったと思っている。コロナ禍の状況下、上演できたことも幸せなことだった。