映画『アメリカン・ユートピア』は、元トーキング・ヘッズのデイヴィット・バーンの最新のライブをスパイク・リーが映像に残した作品だ。“デイヴィット・バーンが出ている映画”程度の前情報で見に行ったのだけれど、たちまち引き込まれてしまった。映像によるライブにあれほどの力があるのだから、生で見た人はさぞ幸福な体験をしたことだろう。映像を通してだったけれど、久しぶりに日常から足を離して、心躍る時間を過ごす事ができた。
デイヴィット・バーンが2018年に発表したアルバム『アメリカン・ユートピア』のワールドツアーの後で、ブロードウエイのショーとして再構成したのが今回の舞台だ。冒頭、脳の模型を手に登場したデイヴィット・バーンは、「赤ちゃんの時に持っていた神経同士のつながりは、大人になるにつれて失われていく、人間はどんどん愚かになっていくのだろうか」と語る。
生活の必要にあわせて、神経どうしのつながりは刈り込まれていく、不要不急のものはカットされていく。移民を排除して単一民族だけのアメリカにしていこうとしていた当時のトランプの愚かさのイメージとも重なる。脳のこの部分はこんな機能を果たす、この部分はこんな役割を果たす、そして脳に聞こえていない音がある、というようなことを語る。(うろ覚えだが)その音を聞きたいと言っていたような・・・。
右脳と左脳が真ん中の溝で連携し合っている、という話のあとで、右脳役、左脳役と思われる男女のダンサーが舞台に表れる。デイヴィット・バーン相変わらず理屈っぽいなーなんて思っているうちに、踊りだした2人の姿を見て「おっ」と思った。何だか違うのだ。2人の踊りの素晴らしさが、ダンスがうまい人という感じではなくてとてもいい。デイヴィット・バーンと同じグレーのスーツに素足のダンサー。同じ格好のミュージシャンが少しずつ増えていって、総勢12名のメンバーが勢ぞろいして奏でる「イ・ジンブラ」あたりになると、かつてトーキング・ヘッズを聞いていたころに感じていた、憧れの気持が胸に蘇った。マーチングバンドのように、メンバーは演奏しながら、歌いながら、踊りながら舞台を動き回る。熟練の演奏技術で奏でながら、実に堂々と、晴れやかに。ダンサーも歌い、ベースマンも踊る。もちろんデイヴィット・バーンも踊る。「録音テープを流しているに違いないという人がいるが、生演奏です」とデイヴィット・バーンがメンバーを紹介しながら、一人ひとりの奏でる音を聞かせる場面が印象的だ。
メンバーの肩に赤外線センサーをつけて、どんなに動き回っても照明が追いかけられるようにしたということだ。また、ワイヤレスの進歩によって、舞台からアンプやケーブルを一切無くすことができた。人間だけが立っているという一見してアナログな舞台がハイテク技術によって可能になっているという事なのだ。デイヴィット・バーンの成熟と技術の進歩があって、「ストップ・メイキング・センス」からさらに進化したライブ映画を作ることができたということだ。
70歳を目前にして、今もなおデイヴィット・バーンは音楽をやり続けている。言う事がまだまだあるからだ。警官の暴力の犠牲になった人たちの名前を読み上げていくジャネール・モネイの「Hell You Tslmbout」のカバーがコンサートのハイライトだ。そして今の社会を変えていくために選挙に行こうとデイヴィット・バーンは語りかける。
最後はトーキング・ヘッズ時代の「Road to Nowhere」を奏でながら客席を1周する。未来は不確かだけれど、希望をもっていっしょに歩かないか、と歌う。「ね」という表情で客席をみつめるパーカッションのジャクリーンが美しい。「そうだよね」という表情で応える同世代の観客を見ていると泣きそうになる。
新聞の映画評で「アメリカン・ユートピア」を紹介して芝山幹郎氏はこんな風に書いている。「天才が成熟するとはこういうことなのか。ヘッズ時代のバーンには、ひたすら自身の影とダンスを踊っているような側面があった。それはそれで魅力的だったのだが、いまの彼は、知恵と技量をたゆまず磨きつつ、同じ空気を他者と分かち合う事に深い歓びを覚えている。見事だ。私は思わず襟を正した。」(日経新聞夕刊:2021年5月28日)
彼の意見に全く同感だ。