ニュース番組は、人を脅かしてばかりで嫌になる。その日の最初のニュースが、あおり運転で逮捕された人の、フロントガラス越しのすごい形相だった時には、いいかげんうんざりした。社会にとって、切実なニュースがそんなものなわけがない。どうして加速度的にこんな事になってしまったのか。朝の支度をしながらや、夕食後のひと時にテレビをつけているのが癖になっていて、もうこんな風にテレビをつけているのはやめようと何度も思う。
けれど、時々、テレビからはっとする映像が届くこともある。
この前、タモリが司会をしているミュージックステーションという音楽番組で、竹原ピストルが歌うのを見た。アメイジング・グレイスのメロディに勝手に歌詞をつけたもので、カバーとも言えないのだと前置きして歌ったその1曲に、心が揺さぶられた。
ミジンコみたいに小さくなって、あなたの頭によじ登り、あなたの白髪を黒く染めたい
ミジンコみたいに小さくなって、あなたの掌によじ登り、あなたの生命線を長く伸ばしたい
ミジンコみたいに小さくなって、あなたのおなかの中に入り、刺し違えてもいいから、あなたのがんをぶっ殺したい
正確ではないが、記憶の限りではこんな歌詞をギターを弾きながらひとり歌ったのだった。誰か、身近な大切な人への祈りである事はすぐに伝わった。声は、そのまま心の形だった。3分くらいの短い持ち時間の中で、ひとりの歌い手が自分の存在を全て注ぎ込んで歌うのを見た。
朝出かける前のつかの間に、イッセー尾形がブラジルから日本に移住した人たちを描いた一人芝居を上演したというニュースを見た。宮藤官九郎の脚本で、ブラジルからの移民の人たちが多く住む団地で上演されたという。日本のゴミの分別が細かすぎて、よく間違えて叱られてしまうなど、日本に来ての彼らの苦労話が「そういう事あるある」とユーモアたっぷりに描かれる。そしてクライマックスは、団地のベンチで孤独死をした高齢の男性の、実話に基づく物語が、イッセー尾形のひとり芝居で語られていく。彼は日本に来て不幸だったのか、ひとりぼっちだったのか。救いを求めて、彼はひとりぼっちじゃなかったという虚構が演じられる。
団地の広場のようなところで上演される一人芝居を見るブラジルの人たちは一緒に笑い、一緒に泣いていた。日常会話に苦労しない程度には日本語が上達した彼らだと思うけれど、心の深いところで分かり合うには、言語ではなく演劇という肉体による言葉が最適だったのだろう。
インタビューを受けるイッセー尾形は舞台上のように饒舌には語らないけれど。ブラジルから日本に来た人たちへの、日本人としての歓迎の気持、遠い旅へのねぎらいの気持を持って演じたのではないかと思った。役を離れている時の彼はジャブジャブ洗って洗いざらしになってしまったような顔をしていてカッコ良かった。ほんの小さなカケラでも、心を打たれる人がいれば、何万人という単位での影響力があるのがテレビだ。時々テレビでそんな、閃くカケラをつかむことがある。