3月5日に、新宿のビームスジャパンの5階にあるBギャラリーで詩人の小池昌代さんと片岡義男さんの対談を聞いた。池田晶子の没後10年を記念するブックフェアに関連して企画された連続トークイベント「池田晶子の言葉と出会う」のうちの1回だ。
日本の民藝をおしゃれに紹介するフロアの小さなギャラリーには、池田晶子の著作から抜き出した文章が壁にプリントされていて、ぐるりと読んでいくと、この壁もまた1冊の本のようだというのが企画者の意図だった。
考えの正しさは、考え自体の正しさであって、誰かにとっての正しさじゃない。本当に正しい考えと個人的立場とは、どこまでも無関係なんだ。(「14歳の君へ」より)
壁のこんなフレーズを読み上げて、片岡さんは「僕から考えの正しさが離れてくれると僕としてはうれしい」と言った。
片岡義男と池田晶子の出会いは、池田氏の新刊『ロゴスに訊け』(2002年/角川書店)の書評を片岡さんが『本の旅人』(2002年7月号)に書いて、池田さんから手紙をもらったことがきっかけだったという。珍しい書評だというのが、池田さんの感想だったらしい。「池田さんに珍しいと言われた僕は、非常に珍しい」のだと片岡さんはちょっと自慢していて、笑ってしまった。
「考えの正しさ」は、正しく考えた人のものだ。正しく考えられた人が居たから、正しい考えが発見されたのだ。普通は、そんなふうに思うのではないだろうか。だって有名な哲学者とか思想家とかが居るじゃないか。しかし、池田晶子も片岡義男もそうは捉えていない。池田晶子が著作で何度も「考えろ」と繰り返しているけれど、対談のなかで片岡さんも「気持ちでわかってはいけない。考えてわからないと」と言っていた。そして、壁のこんな文章も読み上げられた。
人が自分の体験を、そのまま思想化するとどうなるか。体験からしか言えない人は、体験が逆ならば、逆の意見を言うだろう。だから個人の意見などいくら集めてもしょうがないのだ。(「信じること知ること」より)
自分の体験から教訓を引き出してみんなに語るということが、そんなハウツー本が書店にたくさん並んでいるし、今はブログやツイッターを通してばら撒かれてもいる。しかし、池田晶子と片岡義男にとっての「考える」とは、こういう事ではない。
片岡の『白い指先の小説』(2008年/毎日新聞社)の印象的なあとがきを思い出す。小説を書く4人の若い女性を主人公にした短編集のあとがきのなかで片岡は、主人公の女性たちにとって小説を書くのは「言葉によって、つまり理論をとおして現象を超え、抽象化して理解したものをどのように書いていくかという、普遍的な問題と向き合う時間」であり、「思考とそれにもとづく行動のしかた、それが作り出す物語の構造は、可能性として無限にある。無限という自由が開けているからこそ、彼女たちが小説という表現にしかたを選ぶ。」と書く。「書いていくためにはいろんなことを考える。だから彼女たちは、自分で考える、という自由さを、日常のあらゆる時間のなかで、駆使している。これ以上の自由がどこにあるだろうか。」と、そして「目に見えるもの、かたちあるもの、手で撫でまわすことが出来るものなど、どこまでいっても具体物でしかないものにとらわれ、それが世界のすべてだと思い込むことによってもたらされる際限ない不自由さから、自分が言葉になることによって、彼女たちはとっくに脱出している」と続ける。これは、『ロゴスに訊け』のなかの「言葉が自分を表現するために私を道具として使うのであって、私が自分を表現するために言葉を使うのではない。」という文章に呼応している。
考えるときに使う「言葉」というものに対する2人の考え方もまた、独特なものだ。小池さんとの対談のなかで、池田晶子が著作で「ぼくは心だ」と言い、もっと正確には「言葉」だと言っている事に触れ、心とは何か、それは簡単に言うと主観であるということであり、その主観をできるだけ誤解なく多くの人にひろげていくために言葉が要ると片岡さんは言っていた。『ロゴスに訊け』の書評のなかでも片岡さんは「言葉というものは、正確に使われるほど誰のものでもなくなる」という池田の言葉を引用する。そして、先に引用したあとがきのなかで「その人が書くなり言うなりすれば、その言葉はその人のものになるというよくある誤解は、言葉についてあまりにもなにも考えない態度から生まれてくる。」とも書くのだ。
池田晶子と片岡義男、2人が立っている場所は独特だ。対談を聞いてはじめて2人の共通点を知った。池田はエッセイによって、片岡は小説によって「考える」ことの自由を体現した。物質世界から自由になって、普遍にむけて自由に滑空していく気持ちよさを見せてくれた。ひとりきりの自由ではあるけれど、普遍的であることによって(言葉という使いまわしのされているものを道具に使うからこそ)人とつながることができるのだということも示してくれている。
片岡義男の書く小説には固有名詞を伴ってたくさんの具体物が登場するから誤解されやすいのだけれど、いくつもの時代を書き続けてこられた理由に、「考えること」と「言葉」に対する彼のこの態度が関係しているのではないかと思った。たとば印象的な主人公がいないこととも関係しているのではないかと思う。