負ける日があっても

若松恵子

2022年の私の映画ベスト3などの記事で見かけて気になっていた「ケイコ 目を澄ませて」(三宅唱監督)を年の瀬に見に行った。

「とても大切な映画ができました。
たくさんのことがスクリーンを通して伝わることを確信しています。
ケイコと多くの観客の皆様とが出会えますように。」
プログラムに三宅監督がそう書いているように、見終わったあと、様々な思いが胸に去来した。コロナの閉塞感のなかで、よくぞ作ってくれたと思った。いい映画だった。

耳を澄ますのではなく、目を澄まさなければならない、ケイコは生まれつき耳が聞こえない聾者のプロボクサーだ。2回目の試合に勝った後、記者がジムに取材に来る。彼女にボクサーとしての才能はあるのかと質問されて、ジムの会長は答える。
小柄だし、リーチは短いし、耳が聞こえないというのは非常に危険だし、むしろ才能は無い。しかし、彼女の人間性が良いのだと。「才能」より「人間性」だというセリフに心が立ち止まった。レフリーやセコンドの声が聞こえない彼女はリスクが高いので、多くのジムに断られる。古い、下町の小さなジムだけが、彼女の本気を理解して受け入れてくれたのだ。灯台のように、あたたかな灯がともる事務所に静かに座っている会長を三浦友和が好演している。「障害を持つ彼女の才能を見出した会長」という新聞記者が期待するような美談ではなく、日常を生きていくうえで本当の励ましとなるような姿を彼は見せてくれる。

コロナの影響もあり、練習生も減り、会長も年を取り、とうとうジムを閉めることになる。プロボクサーではあるけれど、ボクシング1本で生活は成り立たず、試合の翌日でも腫れた顔のままホテルの清掃の仕事に出かけなければならないケイコの心は揺れ動く。

「なぜ、ボクシングを始めたのか」という問いへの答は映画の中には描かれていない。弟が話す「昔、いじめられて荒れていた時期があったから、ケンカが強くなりたかったんじゃないかな」というセリフがあるだけだ。きっかけなんて、そんな程度の事だったのかもしれない。けれど、なんだかボクシングが好きだという気持ちが、会長やジムのトレーナー、会長の奥さんとの出会いをケイコにもたらせてくれる。確信なんてないけれど、ボクシングが好きだという気持ちに誠実に生きていることで、分かりあえる仲間との絆ができていく。そういう描き方がいい。

昔からあるジムの古い鏡を磨いて、会長とケイコが並んでシャドウボクシングをする場面、ケイコがふいに会長の方を向いて一瞬泣き笑いのような表情をあふれさせる場面が心に残った。映画は、言葉にならない言葉を人間の肉体をつかって見せてくれる芸術なのだ。

プログラムに掲載されているインタビューの中で三宅監督は、「映画館の大きなスクリーンで人をじっと見つめることは、それ自体が面白くてスリリングな経験です。日常では見逃してしまうかもしれないごく小さな心の波や、どんな言葉にもできない何かが、映画館では繊細に感じることができると思います。それを信じて作った映画です。ケイコの人生と、観客の皆さんそれぞれの人生が、出会うことを願っています。」と語っている。

16mmフィルムを使うことで、この映画に美しさと深さがもたらされている。かつてのボクシングジムが持っていた失いたくないものと、かつての映画界が持っていた失いたくないものが重なって見える。しかし、この映画はただ終焉を嘆いている物語ではない。ジムは閉じられても、映画館が閉じられても、試合に負ける日があっても、人生は続いていく。その日の翌日もまた日常は続いていくのだ。しかし、もし、まだボクシングが好きならば、映画が好きならば何とかなる。心から好きでさえあるならば、それで元気が出せる。離れ離れになっても、またいつか会える。そんなことをラストシーンに感じて、見終わったあとも心が揺れ続けている。