ノンフィクション作家の佐々涼子さんが9月1日に亡くなった。
仕事から帰ってつけたNHKニュースで、丁度、そのページだけ切り取って差し出されたように、彼女の訃報を知った。カマラ・ハリスの笑顔を見るたびに佐々さんを思い出す、私には、そんな印象の彼女だった。
2008年、新井敏記氏が講師を務める「クリエイティブ・ライティング講座」で、私は佐々さんと同級生だった。旅、文学、音楽、写真と新井氏が取り上げるテーマや人に魅力を感じ、雑誌『SWITCH』や『Coyote』のファンである受講生が集まった。事前に提出する作文によって選考されるとの事だったが、誰ひとり落とせないという新井氏の判断で、希望した44人全員が受講できる事になったのだった。講座は2008年6月から10月までの全3回。会場は、西麻布にあるスイッチ本社の地下「Rainy Day Bookstore & café」だった。
オリエンテーションで、受講動機を書いた応募原稿を全員がみんなの前で朗読した。44人の言葉に耳を傾ける時間は予想をはるかに超えて、入り口のドアから差し込む光は夕暮れとなり、夜になり、夕ご飯も食べないままさらに深まって行った。受講生それぞれの思いを割愛せずに聞く、その日の体験の驚きが受講生にも主宰する新井さんにもあったのだと思う。
講座は、文章の書き方を新井さんに習うというよりも、書こうと意志する人どうし、学び合うスタイルになった。書いたものも、それを読む声にも、受講生の強い個性が表れていた。朗読された作品が心に残る書き手が何人かいて、佐々さんもその1人だった。佐々さんにとっては、その後ノンフィクションライターになっていく前夜の、まだ何者でもない時代、不安もあるけれど、これから何者かになっていこうとする、言い換えれば何者にもなれる自由に満ちていた、そんな時期だったのではないかと思う。
「クリエイティブ・ライティング講座」に来ているのだから、文章を書くことを仕事にしたい、それで身を立てたいという思いをみんな胸に秘めていたと思うし、既に新聞社や出版社で仕事をしている人たちも、自分だけに書ける作品を書きたいという意志を持っていたと思う。はっきり宣言できないそんな思いを共有していることが、受講生同士を結び付けていったように思う。
新井さんも含めた受講生のメーリングリストが作られ、講座の時間を伴走した。終了する時に新井さんが「メーリングリストは焚火だった」と言っていたけれど、入れ替わり立ち代わりやってきては、焚火のあたたかな火に手をかざしながら語り合う、そんなやりとりだった。誰かが投げ入れた薪に、炎が高く上がることもあって、はらはらしたり、ドキドキしたりした。言葉によって自分を伝え、言葉によってつながりを深めていった。
メーリングリストがきっかけとなって、片岡義男、沢木耕太郎を招いての特別講座や柴田元幸の朗読会が企画された。片岡講座の内容をまとめる小冊子をつくろうと、ある日の食事会で私に囁いたのは佐々さんだったし、沢木耕太郎に会った感激に一緒に座り込んでいたのも佐々さんだった。梅雨の前に始まった「クリエイティブ・ライティング講座」は、夏を経て秋を過ごし、クリスマスの頃に終わった。
私の人生の年表に、旗が立っている年があるとしたら、2008年は間違いなくそんな年だ。2008年からそれぞれ歩んだ佐々さんと私の道は、生と死という岐路まで来てしまった。彼女のように、命を削るように書いては来なかったという思いが胸をよぎる。しかし、そんな言い訳をしてはいけないとも思うのだ。
『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』開高健ノンフィクション賞(2012年11月/集英社)、『エンド・オブ・ライフ』本屋大賞(2020年2月/集英社インターナショナル)、『夜明けを待つ』(2023年11月/集英社インターナショナル)。佐々さんの渾身の作品が私の本棚に並んでいる。クリエイティブ・ライティング講座の後に彼女が経験した世界は大きく、多彩なものだったと思うけれど、彼女と共有した、まだ何者でもなかった時代、あの輝くような半年間の思い出を書いておきたいと思った。