しもた屋之噺(272 )

杉山洋一

仕事帰り、ふと道端に目をやると、見事な黄金色をした猫じゃらしの叢が静かに月光を浴びていて、秋の訪れに気がつきます。このところ、日本の春夏秋冬が薄れかけていると思い込んでいて、秋などどこかへ消えてしまった積りでいましたから、なんだかすっかり嬉しくなってしまいました。

9月某日 三軒茶屋自宅
母と連立って墓参。湯河原、小田原、茅ケ崎、横須賀、久里浜と訪ねる、文字通り目まぐるしい一日であった。
豪雨の影響で昨日まで運休していた小田急線の秦野あたりを通ると、復旧工事に使った分の残りなのか、線路沿いに土嚢が積まれていた。
車窓には、雲一つなく澄み渡った空のすぐ下に美しい富士山が浮かび上がり、母はそれを写真に撮ろうと何度か携帯電話を向けてシャッターチャンスを狙っていたが、結局あきらめた。新松田を過ぎて間もなく、酒匂川の鉄橋から写真を撮ろうとしていたから、てっきり松崎の実家を撮るつもりかと勘違いしていたが、母の横顔がどこかすっきりして見えたのは、朝らしいつんとした空気と美しい秋の青空のせいだろうか。
湯河原の駅をおりて英潮院に向かう途中、ちょうど出がけの叔父さんの顔をみることが出来た。暫く会っていなかったが頗る元気そうで嬉しい。茅ケ崎の寿司でさっと昼食を摂った折、母は初めてのヒゲソリ鯛の握りに舌鼓を打っていた。

9月某日 ミラノ自宅
ミラノに戻って早速市立音楽院入学試験。新入学した中国出身の妙齢は以前ウクライナのキエフ音大で合唱指揮を学び、イタリアに引っ越して6カ月になるという。「わたしは何某を勉強してまいりました。これからイタリアでぜひ指揮の研鑽を積んでゆきたいです」といったメッセージをイタリア語に訳し、プリントしたものを我々の目の前で読んでくれて、初々しいと微笑ましく眺めていると、一人の同僚が、彼女のようにただ音楽だけやりに来ている中国人を見るたび、自分は思わずスパイかと疑いたくなるというのでびっくりする。
尤もたとえ彼女がスパイだったとしても、こちらは特に有益な情報の提供もできないので実質関係がない。常日頃人種差別など激しく抗議する同僚が、そんなことを想像しているとは考えも及ばず、衝撃を受けた。

9月某日 ヴィヴェローネ 民宿・聖アントニオ・アバーテ
ロッポロでのマスターコース1日目。息子が弦楽器を振るのは初めで、難しくてトラウマになるかと内心穏やかではなかったが、本人はすっかり楽しんでいるようで安堵する。息子は別の村の民宿で他の学生たちと相部屋生活。彼にとってはよい経験になるだろう。ドヴォルザークは想像通り遅くなったが、ストラヴィンスキーは悪くなかったと思う。
思い返せば、「ニ調の協奏曲」は若い頃、仲間たちと演奏会で演奏した最初の曲だった。あの頃トップを弾いていた高橋比佐子も、その隣に座っていた鈴木まどかも、今頃はあちらで仲良く四方山話に花を咲かせていると信じたい。
「杉山氏ったら自分の子供にまでストラヴィンスキーやらしているわよ」と比佐子がケタケタ笑うと、まどかが「いやあねえ」と笑い返すさまが目に浮かぶ。二人はとても仲がよかった。

9月某日 ヴィヴェローネ 民宿・聖アントニオ・アバーテ
ロッポロの隣村、ヴィヴェローネの旅館にて。
朝は台所で自らコーヒーを淹れ、冷蔵庫からチーズと果物を出して、美味しいハチミツとトーストと一緒にいただく。朝食を摂っていると、フランスからの巡礼客夫婦が食堂に入ってきて、どことなくはにかみながら「昨晩わたしたち、うるさくありませんでしたか」と言われ、妙な心地。
リハーサル前にロッポロ城まで散歩がてら歩く。軽い山道で30分ほど。練習三日目だからか最終日だからか、どこかオーケストラは神経質になっている。毎日朝から晩まで馴れない学生の相手をしていれば困憊するのも当然だ。
午後、全てのリハーサル後のミーティングで、「ヴィオラとヴァイオリンの二人がとても愛想悪くて耐えられない」とアンドレアが滔々と不平をこぼす。城の眺望台に立つと、眼下にはヴィヴェローネ湖が広がり、その奥に薄い刃のようにそそり立つアオスタの稜線が、奇観となってアルプスの果てまで続く。耀く夕日が湖の水面すべてを金色に染め上げていた。
ギター奏者では名うてのアンドレアだから、若い演奏家の視線に神経質になっていたのか。ガブリエレは未だオーケストラの圧迫感に慄くばかりで、足を踏み出す勇気が出ないようにみえる。彼らに交って参加している息子も、神妙な顔つきで会話に加わる。息子は、普段から父親に対して疑問に思っていることを、ここぞとばかりに色々聞きだしたいようであった。何故指揮を始めたのか、最初の演奏会で振った曲はなにか、他愛もないが答えに窮する質問が続く。

9月某日 ミラノ自宅
昼食のため、旅館にほど近いパン屋で、地元のチーズを挟んだ小さなサンドウィッチを作ってもらう。家人にはピエモンテのサラミを、こちらは地元ボー産トマ・チーズを自家製のパンに挟んでもらった。素朴ながら実に美味で端正な味がする。小さなサンドウィッチ4つとヨーグルト2個で6ユーロ。ミラノならどんなに安くとも10ユーロはするところだ。このパン屋なら、美味しいフォカッチャやピザがあると聞いて出かけたのだが時既に遅し、全て売切れていた。恰幅の良い中年の婦人が一人切り盛りしていて、実に愛想がよい。
夜の演奏会が開かれた教会は、詰めかけた聴衆で一杯。アンドレアもガブリエレもそれぞれの問題を解決し、見事な演奏をしてくれたし、南イタリアの最果てレッチェからやってきたジュゼッペが演奏したグリーグは、心に響く歌があった。息子は特にドヴォルザーク後半、なかなかエスプレッシーヴォに歌わせながら美しく熱い音を引きだしていて愕く。この経験はピアノを弾く上でも役立つに違いない。
田中信昭先生の訃報。「たまをぎ」や「おでこのこいつ」だけでなく、先生のレコードやエアチェックしたカセットテープを、どれだけ聴いたかわからない。その度に躍動感溢れる音楽にいつも満たされた。我々は、高校大学と先生から合唱を教えていただいた世代で、当時、学校は贅沢過ぎるほどの環境であった。先生はお洒落でダンディで、いつも早足で歩いていらした。
先生から初めて曲を頼まれたとき、緊張してどうしてよいか分からなかった。阪神淡路大震災の燃え盛る映像をみながら、自分に作曲なんかできるのかと茫然としていた。あれはイタリアに住み始める直前で、引き剥がした自らの裡の一部を日本に残してゆきながらイタリアに住み始めた。あの日本に置き去りにした自分の欠片は、あれからどうなったのだろう。
ずいぶん時間が過ぎて、多治見の合唱団で先生が「たまねぎの子守唄」を振ってくださったとき、先生が紡ぎ出す生命感に、圧倒され涙がこぼれた。自分の曲を聴いて泣いたことは初めてで、自分の裡の音楽に対するわだかまりがカタルシスとともに溶けていったような気もする。水牛を読み返すと2006年10月の日記だったから、息子はまだ1歳たらず、「味とめ」で悠治さんや美恵さんに抱いてもらっていたころだ。

しもた屋之噺(59)


それほどに感動した演奏を生みだした信昭先生のエネルギーに何も触れていないのは、演奏が素晴らしくて、詩人の世界で頭が一杯になっていた自分の若さゆえには違いない。若い頃は、何によって自分が生かされているのか、自分を生かしてくれているのか、気がつかない。先生のひたむきな音楽への喜びと愛を思い出しながら、そんなことを思う。当時は子供が生まれたばかりで、無事に育ってほしいと願ってやまなかったから、人生で最も人間を信じたい、信じられるようになりたいと渇望していた頃ではなかったか。先生から頼まれた「光の子」と「たまねぎの子守唄」を通して見えてきた何か、感じられるようになった何かを大切にして、今日まで生きてきたことに気づく。それこそが田中先生が下さった最高の贈り物だと今になって知る。深圳で男児が刺され、翌日の報道で亡くなったとの報道。息子も以前ミラノの日本人学校に通っていた。

9月某日 三軒茶屋自宅
最近、時差がとても身体に堪える。昨晩は結局11時くらいに家に着き、軽く夜食を作って食べて、朝の4時に起きて日本行の荷造りを始めた。ローマ空港に着いて、乗り換えの順路に沿って暫く歩くと、まもなく手荷物検査場に着いてしまった。係員に羽田行きのチケットを見せ、手荷物を検査して順路を進むと、パスポートコントロールもなく、気が付けばヨーロッパ圏外便ターミナルに足を踏みいれていた。狐につままれた心地でラウンジに入り、「すみません、ミラノから来たのですが、昨夜殆ど寝ていないせいか寝ぼけていて、ここに来る折、パスポートコントロールを通ってきた記憶がないんです、大丈夫ですかね」と告白すると、入口の係員に「あら、イタリア語お上手ですねえ、でもパスポートコントロールは当然通っているはずですよ」と一笑に附されてしまった。ところが、続いてやってきた同じミラノ便の乗客が、今日はパスポートコントロールがなかった、手荷物検査場の係員の妙齢がまったく埒が明かない、クレームをつけてきたよというので、受付の女性たちは青ざめてしまった。
早速こちらのパスポートをチェックしたところ、確かにどこにもイタリア出国のスタンプが見当たらない。続いてやってきた別のミラノ便客も、同じ苦情を呈した。どうやら順路の動線を空港職員が間違えたらしい。結局、ミラノ便利用客は集められて、近くの出口から一旦外にでて、改めて出国手続きをすることになる。そうでないと飛行機に乗せてもらえない危険もあったらしい。あなたが気が付いてくださらなかったら、とんでもないことになっていた、と受付の妙齢から神妙な面持ちで感謝される。

9月某日 三軒茶屋自宅
羽田から自宅に着いてシャワーを浴び、自転車で桜新町の練習場へ向かう。時差ボケで身体全体が怠い。エルザに収斂する事象のベクトルを、広い空間で発散できるようにしたいと思いつつ、悠治さんの家の前を通りすぎる。
フレーズの感覚を視覚的に把握すること。一見並列する事象を少し俯瞰してみるだけで、方向性とフレーズが見えてくる。上方から楽譜を眺めれば、思いの外古典的な形式美も浮かび上がり、はっとさせられる。今日、橋本さんと一緒にやった練習風景の録音が送られてきて、音そのものが宿す色や匂いや響き、距離、感情、機敏、空気感から湿度に至るまで、より鮮やかに実感できる。とても細やかに作りこんであって、作品への理解、心に映る光景の豊かさ、それを声にできる能力の高さに舌を巻く。
能登で改めて豪雨被害。イスラエル、ヨルダン川西岸アルジャズィーラ放送局をイスラエルが45日間閉鎖。ロシア空軍機、日本領海を3回にわたり侵犯、航空自衛隊フレアによる警告。世界は、人間はどうしてこうも不公平なのか。毎日、能登の豪雨や世界の諍いの報道を目にするたび、自らの無力を恨めしく思う。
先日、送られてきた般若さんと辻さんの演奏を聴いて、自分の悔恨が吸い込まれてゆく気がした。尤も、どんな心地で曲を書こうとも、失われた命が戻るわけでも、流された家屋や破壊された病院が戻るわけはない。自分にできるのはその程度でしかない、と諦観と共に受け入れるしかない。水平線の彼方で微かに蓋が開いてみえるあれが、パンドラの箱か。

9月某日 三軒茶屋自宅
市村さんよりメールが来て、ギターの藤元さんからの質問が届く。丁度こちらもシャリーノのギターパートの記譜法が理解できず困っていたので、ピサーティに電話をする。彼はシャリーノ弟子でシャリーノのハープ曲をギターに編曲もしているから、信頼できる。ピサーティ曰く、シャリーノのギター記譜法は誰もが理解に苦労するらしく、ローマ数字はヴァイオリン族の記譜と同じく弦番号を示し、丸の付いたハーモニクスは通常の自然ハーモニクスで1オクターブ下が鳴るが、菱形のハーモニクスは、ヴァイオリン族の記譜と違い、実音がそのまま菱形ハーモニクスで記譜されているそうだ。指定された弦でそのハーモニクスが鳴らなければ、弦を変えるか人工ハーモニクスにして、要はその音が出ればよいらしい。彼が学生だった頃、ミラノ・スカラ座の「ローエングリン」初演を見た衝撃は忘れられないという。シャリーノの作品の中でも特に傑出していると思うし、その後もシャリーノはオペラを沢山書いたけれど、ローエングリンは別格の美しさだという。エルザ役を歌ったバルトロメイは勿論のこと、ピサーティには3人の男声が特に鮮烈な印象を残したそうだ。彼ら3人がエルザをより錯乱した世界の深部へと誘うのだから当然だろう。
町田の両親宅にて夕食。コンニャクの味噌田楽と秋刀魚の塩焼き。味噌田楽は、子供の頃、湯河原の祖父が夏開いていた海の家でよく食べた懐かしい味で、同じ味がした。当時あの味噌だれを作っていたのは誰か尋ねると、他でもない父自身だった。ガブリエレよりトリエステ国立音楽院に無事入学とのメッセージ。これが彼の自尊心と自信を取り戻す切っ掛けになってほしい。袴田巌さん無罪判決。イスラエルによるヒズボラへの攻撃で、レバノンでは270人以上死亡との報道。

9月某日 三軒茶屋自宅
大ホールの舞台にたった一人立つ感想を聞かれた橋本さんが、実に明るく「楽しいです」というので、一同感嘆。われわれと演奏している時、演技する時のように没我しそうになるのを、必死に堪えるんです、と笑った。
自分はどうしてもシャリーノが意図した音楽をやりたいんです、と語る橋本さんの言葉に、車座になった我々全員が強く心を揺すぶられる。静かな言葉だったが決然としていて、一語一語我々の臓腑に沁みるようでもあり、決然の強度に思わず圧倒されて、帰宅しながら喉がからからになっているのに気づく。
シャリーノの音楽を聴きにきた人に、喜んでもらえる仕事をしたい、真剣な眼差しでそう語っていて、この人は本当に音楽をやりたいのだろうとおもう。これだけ音楽的感性に長けていて、今まで音楽と本当に無縁だったなら、これも不思議だね、と矢野君と話していた。音楽を通しての会話、沈黙の深度、時間軸の速度の知覚には驚くほどの感性だとおもう。楽器を弾けるだけが音楽家ではないとは分かっているが、こういう現実を目の当たりにすると、音楽をする尺度そのものを考え直す必要もあるかもしれない。彼女がこれだけ真摯に取り組んでいる音楽に対して、我々はどう応えられるのか。一期一会というのか、こうして別の視点から自分の仕事を見つめ直すとても倖せな機会を一柳さんに頂いた。彼はやはり只者ではない。

9月某日 三軒茶屋自宅
昨日は立稽古の動きを最後まで定着してから、全体の通し。今日は矢野君に振ってもらって県民ホール3階席から舞台の橋本さんとやりとりをしながらリハーサル。広い空間でも、演者の意識が客体化され言葉から意識的に感情を切り離すだけで、橋本さんの言葉の音が際立ってくる。面白いものだね、隣に座っている山根さんと菊地さんの顔が思わずほころぶ。
シャリーノのローエングリン初演をしたガブリエルラ・バルトロメイの「未来派音楽」。バルトロメイ自身が作曲したイタリア未来派のマリネッティやボッチョーニをテーマにした一連の作品群らしいが、解説がないので詳細がわからない。リコルディから出ている「ローエングリン」CDの印象が強くて、デイジー・ルミーニが初演したと錯覚していたのを、スカラ座での「ローエングリン」第1稿初演に立ち会っていたピサーティと電話で話して、あれはルミーニじゃないよ、バルトロメイだよ、と言われて気が付いた。
バルトロメイは、ブソッティやダニエル・ロンバルディなど、前衛のなかでも特にダダイズムとか少し奇矯な現代音楽との即興などを多く手掛けた女優で、フィレンツェの国立音楽院で声楽と舞台演技の研鑽を積んだ後、前衛音楽や前衛演劇の分野で活躍したようだ。音楽院で声楽を学んだのに楽譜が読めないというのが不思議だが、当時スカラのローエングリンでコレぺティトゥアをやっていた作曲のガブリエレ・マンカと話したところ、ガブリエレはローエングリンのスコアを適当にピアノで弾いて稽古をつけたが、バルトロメイは楽譜が読めなかったので、ネウマ譜のような特別な楽譜で勉強したという。楽譜が読めなかったのは本当らしい。そのためか彼女は何でも暗譜でやっていた。
スカラ座のアーカイブには初稿スカラ座初演時の写真や詳細な記録が載っていて、一人でエルザとローエングリンを歌うバルトロメイの他、エルザ役、ローエングリン役の黙役俳優が一人ずつ、そのほか3人の男声合唱とパントマイムの黙役6人も舞台に上がったようだ。この公演は現在も続くミラノ・ムジカ音楽祭の一環だった。
シャリーノはあまり気に入らなかったそうだが、スカラ座アーカイブの写真でみるピエルルイジ・ピエルアッリの演出は実に端麗である。マンカもピエルアッリの演出を絶賛していた。吉開さんと山崎さんが築いた舞台は、このピエラッリと双璧をなすような息を呑む美しさで、隅々まで触覚的に研ぎ澄まされている。
劇場用に書かれた初版の演奏は、シャリーノが淡々と指揮して曲を進める一方、その流れにそってアシスタントたちがバルトロメイや他の出演者にキューを出して進めていたようである。バルトロメイのパートも、現在流通している第2稿よりずっと大雑把で定着度の低いものだったに違いない。
現在の第2稿は、後にラジオドラマ用に大きく作り直されたもので、エルザ役もバルトロメイからピアノも歌も学んだマルチ・シンガーソングライター、デイジー・ルミーニに変更されたから、エルザのパートも、以前に比べずっと緻密に書き込まれたに違いない。マンカ曰く、初演ではシャリーノの振るテンポがいつも違うので、演奏者は大層困ったそうである。イスラエルの爆撃によりヒズボラのナスララ師が死亡。

9月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラ・リハーサル初日。想像していた通り、「瓦礫のある風景」の演奏は非常に困難。とは言え、特に優れた演奏者が集まっているから、次第に浮き上がってくる光景の鮮明さと恐ろしさに、ふと言葉を失いそうになるほどだ。シャリーノはウクライナ侵攻への抗議をこの曲に込めたが、ロシアのウクライナ4州併合宣言から今日で2年になる。
橋本さんとオーケストラとの顔合わせでは、不思議なくらい違和感を覚えなかった。ごく自然に演奏に溶け込み、何の問題もなく進んでゆく。最初の休憩に入るとき、成田君が「いや、橋本さん凄い…」と絶句していたのが印象的だった。「想像できなかったでしょ」と言うと「いやあ、それを遥かに超えていました」と大きくかぶりを振った。
練習が終わると、彼女はオーケストラ全員から拍手喝采を浴びていて、皆から仲間として温かく受け容れられているのがよく分かった。目の前に並ぶ錚々たる演奏者たちから彼女がソリストとして讃えられている姿は感慨無量であった。
県民ホールでのリハーサルを終え家路に着こうと携帯電話を手に取ると、シャリーノからメッセージが入っていて、日本の調子はどう、と書かれていた。

(9月30日 三軒茶屋にて)