4月に、2つの短編小説集が出版された。村上春樹著『女のいない男たち』(文芸春秋社)と片岡義男著『短編を七つ、書いた順』(幻戯書房)だ。穏やかな晴天が続く4月下旬を、この2冊の短編集といっしょに過ごした。桜が散り、電車には新入生があふれ、新しく何かが始まる4月に、好きな作家の新作を読むことができてとてもうれしかった。
村上春樹氏は、前作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』から1年ぶり、短編集としては『東京奇譚集』以来9年ぶりの新作との事だ。待ち望んだファンも多く、どの書店でも山積みだった。あんまり売れていると、天邪鬼だから知らん顔したくもなるが、これまでと違う印象の表紙が新鮮で発売日に手に入れてさっそく読み始めた。
片岡義男氏の短編集については、水牛のコラムで八巻美恵さんが紹介しているのを読んで刊行を知り、最近雑誌に掲載した作品を編んだものだろうと思っていたが、何と全作品書き下ろしで、わくわくしながら早速読んだのだった。
村上春樹と片岡義男は並べて語られることも多い。二人とも”日本の小説らしくない小説”を書いて日本で有名な作家だからだろうか。偶然同時期に出た短編小説集を2つ読んで、それぞれの世界を楽しんだのだけれど、2作品に少し共通したものを感じたので、感想を書いてみようと思う。
『女のいない男たち』では、表題にある通り、女に去られた男たちを主人公にした6つの物語が語られる。短編集には珍しく「まえがき」があり、この本がつくられた経緯が説明されている。この「まえがき」のおかげで、それぞれの作品を必要以上に深読みせずに味わう事ができた。
何かの曲のメロディーが妙に頭を離れないということがあるが、それと同じように、「女のいない男たち」というフレーズが作者の頭を離れず、それがこの短編集を貫くひとつのモチーフになったという。そして、「ひとつのモチーフを様々な角度から立体的に眺め、追求し、検証し、いろいろな人物を、いろんな人称をつかって書き」1冊にまとめるという方法は音楽でいえば「コンセプトアルバム」に対応するもので、村上氏は執筆中、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』やビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』をイメージしていたという。
どの物語も読んだあとに奇妙な感じが残る。答えが示されていないからだ。”オチがない”ともいえる。「女のいない男たち」について、村上春樹は解釈しないし、もちろん批評もしない。ただそういう男たちの存在を感じ、その姿を見いだすだけだ。炭鉱のカナリアみたいに。オチを求めずに、「まえがき」で村上氏がたとえている「音楽」のように、物語をくりかえし聴き、ただ全体を味わえばいいのだろう。
村上氏独特の比喩も健在だ。ある人物の姿や、感情が、様々なものにたとえられて語られる。たとえられるものの遠さに、心がしんとする。深刻になりすぎないように、気をそらして自分を励ましているような村上氏の比喩が、私は相変わらず好きだ。
そして、片岡氏の物語の”オチのなさ”は村上氏を上回っている。ついに、題名からして「書いた順」である。題名通り、作者が書いた順に7つの物語を読むことができる。
村上氏が比喩ならば、片岡氏は「会話」だ。会話が物語を運んでいく。投げかけられた言葉に、意外な返答があり、その距離感(飛躍)によって物語が転がり出すという印象がある。語られる言葉は、登場人物の意識で、その意識の非日常性が物語だ。
「すみれ」「たんぽぽ」「れんげ草」と3軒並んだバーがありました、という所から始まる物語は、日常生活において何の役にも立たないけれど、日常を少し離れるおもしろさがある。即興演奏を楽しむように、読み手の意識も物語に沿って弾んでいく。
役に立たないからといって意味がないわけではなくて、この物語を読むことによってもたらされる、新しい感覚というものがある。それが欲しくて、片岡さんの物語を読む。気に入ったポップスのシングル盤のように、時々繰り返し聴くというような楽しみ方をしたらいい。
村上春樹の物語も、片岡義男の物語も「説明のつかないできごと」を体験させてくれる。いつのまにか説明がつくことばかりになってしまった現実の生活に、違う時間をもたらしてくれる。