言葉の手触り

若松恵子

片岡義男さんの短編集『木曜日を左に曲がる』の出版を記念して、詩人の小池昌代さんとの対談が千駄ヶ谷のブックカフェ「ビブリオテック」で開かれた。9月10日、まだ秋が始まったばかりの土曜日に片岡さんの話を聞くために出かけて行った。

イベントの案内には「ほんの一歩、それが小説。さらに一歩、それが詩。一歩から物語が生まれる。一歩とは希望。でも、自分は自分でしかないのに、どうしたら自分の外へ踏み出す一歩の言葉を作り出せるのか? 「一歩」の言葉が生まれる時間と場所を、こっそり教えます。」とある。小説の1歩と詩の2歩。小説も詩も両方書く二人の間にどんな会話が交わされるのか、期待を胸に出かけた。

以前小池さんが紀伊国屋書店の名物フリーペーパー「じんぶんや」で、片岡さんの『日本語の外へ』を大切な1冊として推薦しているのを見た時、意外なうれしさを感じた。詩人というものが言葉に対してもっているこだわりと、片岡さんが言葉に対してもっているこだわりは、違う世界の話のように感じていたからだ。

対談の中盤、小池さんの新しい詩集『コルカタ』に登場する少年の話になる。インドのコルカタに住む「純粋な光を放っているような少年」(と片岡さんは紹介していた)が詩を書いている。そして、その”ひみつ”をやすやすと姉によって明かされてしまった少年は、自分の部屋にまっしぐらに逃げ帰ってしまう。「見せたくなくて、逃げるという事は自分にはなかった。」と片岡さんが言って、そこから対話は核心に入っていったのだった。片岡さんは、その最初の作品から、人に読ませるための文章を書いてきたと言う。商品として成り立つ文章、読まれないと完成しない、共感があってはじめて完成する職業人としての文章を書いてきたというのだ。

安っぽい謙遜ではなくて、本気で、誰にも見せたくないという思いを持って文章を書く少年は、何のために書くのだろうか…。たぶん、自分のためにではないか。自分が世界を理解するために、世界をしっかり掴むために。書いて、世界を言葉で確かめているということではないだろうか。この世界にぴったりあてはまる言葉、時には、目に見えないものの存在を指し示す言葉。当然書かれたものは、納得できるまで充分に彼独特なものとなるはずだ。言葉は、時に通常の使い方とは違った使われ方をして、そのことによって役割を果たす。そのように書かれた言葉は、独特の手触りを持った言葉になっているような気がする。そして、その独自性、いびつさが、誇らしくもあり、とてつもなく恥ずかしいということではないかと思う。

小池さんは、「詩には、私のほんとうのほんとうの部分が残り続けている」と言い、「僕はそうなれない」と片岡さんは言う。一流の言葉遣いの二人が、言葉の持つ表裏一体の魅力について語っていて印象的だった。
「他者性と間接性が大切だ」と片岡さんは繰り返し語った。片岡さんは、言葉に固有の意味を付加するという事をしない。片岡さんにとって言葉は、「レゴの部品」のひとつひとつのようなものだと言う重要な発言も聞かれた。では、彼の書くものが無味乾燥なのかというと、そんなことはないと思える。

言葉は人と共有できるくらい、充分に洗練された道具として、既に充分魅力をもっているのではないか。手作りの、ごつごつとした手触りを持った言葉ではなく、人々を媒介する道具となりきった言葉の魅力について、片岡さんは承知しているような気がする。片岡さんの作品の持つ清潔感というか、空気の乾いた空間の気持ち良さのようなものは、この言葉の扱い方から来ているのではないかと思った。もう少しよく考えてみなければならないのだけれど。

片岡さんには、スーパーマーケットの棚の魅力について書いている文章があったけれど、ちょっと共通するイメージとしてそのことを思いだしたりもする。