9月16日にバンドンで行われたジャワ神秘主義実践者らの集まりで踊ってきた。というわけで、今回はインドネシア、中でもジャワの信仰について書きたい。
インドネシアでは宗教と信仰は別とされていて、前者は宗教省の、後者は観光文化省(認定された時点では教育文化省)の管轄下にある。普段は略して「信仰」と言っているけれど、正式には「唯一神への信仰」と言う。ちなみに宗教として公認されているのは、イスラム教、キリスト教・カトリック、キリスト教・プロテスタント、仏教、ヒンドゥー教、儒教の6つである。儒教はスハルト退陣後の華人文化の復権に伴って再公認された。
信仰は各地に土着的なものがたくさんある。以前は、信仰を表す語はクバティナン(内面的なるものの意)だったけれど、前・信仰局長の話によれば、信仰を表す語はクプルチャヤアンに統一されたので、クバティナンは今は使われていないとのこと。
私はジャワ以外のことはほとんど知らないので、ここではジャワのことだけ書く。ジャワで実践されている信仰は、特にクジャウェン(ジャワ的なるものの意)と呼ばれ、ジャワ神秘主義と訳される。彼らは占や暦を信じ、霊的な力の強いとされる日に、霊的な力を得られるような場所(聖人の墓、巨石のある場所、川など)で瞑想やみそぎなどの修行をしたり、断食をしたり、霊が宿るとされる石やクリス(剣)を大事にしたりして、霊的な力を得ようとする。また、一定以上の霊的な力を得た人は、そういう力で以って他人を施術することもある。
そういう信仰を実践している人たちは、自分たちのことをプングハヤット・クプルチャヤアン(信仰実践者)と称する。インドネシアには、似たようなカテゴリの人を指す言葉として、パラノルマル、ドゥクンという語があるが、信仰実践者を自称する人達は、彼らと一緒にされることを喜ばないので、注意が必要だ。
パラノルマル(英語のparanormal)とドゥクンはどちらも超常能力を見につけた人のことを指し、特に、失せ物・失せ人探し、事業の予言、病気治療などを得意とする。ただし、インドネシアでは、どちらもネガティブな響きを持つ単語だ。特に、少なくともジャワでは、ドゥクンという語を耳にすることはない。そこには、呪術師のようないかがわしい感じの響きがある。パラノルマルの方がまだしも耳にするし、王宮広場のイベントで「パラノルマル大集合!相談コーナー」という企画もあったので、ドゥクンほど否定的な響きはない。それでも、一般の人たちにはこういう人たちのことをオラン・ピンタール(賢人の意)と呼んで、パラノルマルやドゥクンという語を口にしないことが結構ある。
パラノルマルやドゥクンは信仰実践者と違って、その能力によって生計を立てている。信仰実践者が一緒にされたくないと考えるのも、それが一因だ。信仰実践者は何らかの職業で生計を立てながら信仰し、そこからお金を得るようなことはしない。信仰の実践として他人に施術することがあっても、お金を受け取らないのが普通なのである。
パラノルマルの人たちは、卓越した能力があるかどうかだけが問題なので、その能力の由来する宗教はまちまちだ。クリスチャンのパラノルマルだって大勢いる。そして、××教徒であることと、パラノルマルであることとは矛盾しない。
けれど、信仰実践者の場合は少し違う。ジャワではイスラム教は土着信仰と混交してきたので、イスラム教徒であることとクジャウェン信仰が矛盾しないと言う人も少なくないが、いずれの宗教の信徒であることも拒否する信仰実践者も少なくない。インドネシアでは2006年、前・信仰局長の時代になって初めて、信仰実践者はKTP(身分証明証)の宗教欄を空欄にしたままでよいということが法律上で認められた。それまでは、いずれかの宗教に属していなければならなかったのだ。
それでも、社会的には信仰実践者というのはマイナーな存在のようだ。私が出演した信仰実践者の集まりはバンドンにある国営ラジオ局で開催されたが、信仰実践者の集まりに場所を貸すことに反対する勢力が根強くあって、開催までスッタモンダがあったと聞いた。前・信仰局長の話でも、信仰実践者の集まりに招待されて出かけたら、その会場の周囲をイスラム教徒の反対デモが取り囲んでいるというようなこともあったらしい。
似たような存在だと思われているけれど、信仰実践者とパラノルマルは、法的には別の存在である。今まで述べてきたように、信仰実践者に関することは観光文化省信仰局の管轄だ。しかし、パラノルマルは、実は、最高検察庁(Kejaksaan Agung)の管轄下にある。また、信仰は観光文化省信仰局の管轄下にあるといっても、これは信仰実践者団体を管轄しているだけで、個人の信仰までは管轄していない。そして信仰団体とは、教義を持っている団体のことなのである。(そうなると、別に宗教と信仰を分けなくてもいいと思うのだが…。)パラノルマルは個人の活動なので教義は必要ないという点でも、信仰局の管轄から外れてしまう。