「ここに来る途中、考えていたのです。1960年の今日、1月18日は何をしていたかな、と。推測するには、大学はもう始まっていたでしょう」という片岡さんの先導でスタートした。
――学校には毎日行っていたのですか。
一応家を出ます。雨の日以外は。オーバーコートを着ていたはずです。今より寒かった。寒さの質が違っていたような気がします。今寒いところに行っても、何だろう、あの頃の寒さとは違うと感じます。あの寒さがなくなってしまったのは残念だな。
――どんなコートを着ていたのですか。
映画のなかで赤木圭一郎が着ていたようなオーバー。まったく同じ時代だから。見ると懐かしいのです。着た時の感じ、着て歩いた時の感じを体が覚えている。
――鞄は持っていたのですか。
何も持っていません。手ぶらです。
――その頃からなのですね。
その頃から手ぶらです(笑)。色々持つのが嫌いなのです。靴は何を履いていたかな。おそらく革でしょう。くるぶしまである。浅い靴だと安心して歩けない、闊歩できないから。
――大学まではどんな経路で行かれたのですか。
主として小田急線の「世田谷代田」の駅から、急行に乗り換えることなどせずにそのまま各駅停車で「新宿」まで。新宿から山手線で「高田馬場」。駅から大学まではほとんど歩いていました。歩いて楽しい街だったのです。古本屋がいっぱいあったし、書店もあったし、映画館もあった。大学に着く前に日が暮れてしまう。履修している授業は全部午後からだから。
――『海を呼びもどす』(光文社 1989年)は大学が舞台の長編小説でした。
背景はほぼ全部あった通りです。いつもウエストにベルトを締めている女の子がいたな。色々と違うベルトを締めていることにふと気づいたりするわけです。彼女は服を着る時に、最終的に必ずベルトを締めるわけでしょう。それを取ってみたいと思ったのを思い出します。1月18日……、試験の前ぐらいだったかな。
――授業を受けるために学校に行ったのですか。
いや、それはないでしょう。靴は黒、ズボンも黒。
――大学生がTシャツとかジーンズなどをまだ着ていない時代ですよね。
夏の写真を見ると、全員白いYシャツの腕まくりです。僕もおそらくブルーのシャツなどを着ていました。襟だけ白いブルーとか、薄いピンクのとか。
――珍しいですね。
既成品が合わないので、Yシャツだけは作ってもらっていました。あとネクタイ。あの頃流行った黒いニットのタイ。
――今はほとんどネクタイなさらないでしょう。なぜ。
わからないです。あとはウールのシャツ、ツイードのジャケット。
――そして鞄も持たずに出かけていく。
何の苦労も無い、坊やに見られたことが多かった。そういう人が高田馬場で電車を降りて、早稲田通りを歩いていく。駅の左側、午後の陽があたっている方の道。ポケットのなかにはお金と、たぶん家の鍵とバンダナくらい。バンダナはハンカチより面積が広くて良いのです。
――お金はそのままポケットにバラバラと。
ええ。お金払う時に全部ポケットから出して。しわくちゃのお札を出して嫌がられた事がありました。今よりお札が切れていたり、汚れていたりということが多かったな。
――まだ働いていないから、お小遣いをもらっていたのですか。
おそらくそうでしょう。ただ学費は父親から借りて、三年くらいで返しました。父親は英語ですから嘘がつけないわけです。いい加減にごまかすということができない。英語にはそういう機能があるのです。使っている日本語にインチキな部分が入り込むと英語の頭で分かってしまう。そうすると日本語が使えなくなるというか、できるだけインチキな日本語は使いたくないというブレーキになるのです。ごまかせない、居直れなくなる。
――お父さんとの会話は英語だったのですね。
ええ。
手ぶらっていいですよ。自由だから。途中で何持っても良いわけだから。でも物は買わないし、買ったとしても本くらいかな。学校に行くまでに本屋に寄ると30分くらいはすぐ経ってしまう。本の背中を見ているだけでおもしろいわけです。何か目的があるわけではなくて、探している本があるわけでもなくて、そういう状態っていちばんいいのかもしれない。受身の極みのようでいて、実は能動的。何でも目に入るものをいったんは受けとめるわけですから。学生をやっていることとよく調和している。新刊書店と古書店とは時間の使いかたがまるっきり違う。置いている本が違うわけだから。つらいのは専門書の古書店。法律関係の古書店に入って眺めていると、どの本も自分と何の関係もない。法学部の学生なのに何の関係もないということを感じながらしょんぼりするのも悪くなかったです。そんな時間の中で知ったのが「マンハント」でした。小鷹信光さんの書いたものを立ち読みしたのです。新しい号が出るのを楽しみにしていた記憶があります。
――「マンハント」のような雑誌は他にはなかったのですか。
そうです。それまでの時代と違っている、次の時代の雑誌の走りでした。立ち読みで知って、毎回楽しみにする記事ができて、その記事を書いた当人と会って、その雑誌に書くようになる。つながりというか、必然というか。そこに掬い上げられるというか、網の目にひっかかるというか。
――ひっかかって良かったですね。
良かったです。本当にそう思います。すごい片すみにいたということも有利に作用したと思います。片すみというか、自分にあっている場所というか。1961年の2月のはじめ頃に、高田馬場の駅にいちばん近い本屋で小鷹さんの連載記事を初めて読んだのです。
――そして61年の夏には神保町の洋書の古本屋で出会って、暮れには翻訳したい作品のリスト「マンハント秘帖」を二人で作るのですね。リストをタイプで打ったのが片岡さん。
タイプライターを買いに行きました。米軍の放出品を府中まで。通称「関東村」と言ったかな。机やキャビネットも買いました。軍用のタイプライターは頑丈で酷使できるから。アンダーウッド。インクリボンがなくて苦労した記憶があります。タイプライターの修理会社がお茶ノ水にあって、そこに行ったんだ。タイプライターの修理会社、時代ですよね。
――タイピストがいた時代。
タイピストプールというのがあって、タイピストがずらっと並んでいるのです。朝9時すぎるといっせいにタイプを打ち始める。タイプライターの修理会社……。今はパソコンを捨てる会社でしょ。半世紀でそれだけの違いが出てくる。「マンハント」は久保書店というところから出ていました。中野の哲学堂あたりにあって、2、3回行ったことがあります。
――小さな出版社を好むところは一貫していますね。
好みというか、片すみで知り合うわけですから、相手も小さいのです。
――「マンハント」のどこに魅かれたのですか。
何となく斬新な感じがしました。表紙の感じとか。新刊雑誌は、書店の表に吊るしてあったのです。手に取るでしょ。
――小鷹さんのことは古本屋で出会う前から「マンハン」の記事でご存知だったのですね。小鷹さんは片岡さんのことを知っていらしたのですか。
古本屋のおじいさんから聞いていたようでした。何回も買っていると色々聞かれるでしょう。早稲田の学生ということで、後輩が良く買いにくるよという話を小鷹さんにしたようです。
――お互いに買うものの傾向が似ていて興味を持つということですか。
重なる部分はありましたが、似てはいません。買いかたもまるっきり違います。彼は、あるジャンルをできるだけ集める。集めて構築するタイプ。僕は持っていなければ買う。読むことが目的ではないのです。買って家に持って帰って積んでおく。瀬戸内から東京に帰ってきてからペーパーバックを買い始めたのですが、家の周辺にある古本屋のどこに行ってもペーパーバックが置いてあった。今思えば不思議でも何でもないのです。ワシントンハイツなのです。
――代々木にあった占領軍の宿舎ですね。
そこから出たペーパーバックが下北沢や渋谷で売られていたのです。アメリカのものは本来日本とは関係ないでしょう。それが片すみに置かれている違和感。違和感に加わりたくて、買って家に持って帰るとその違和感が僕のものになるでしょう。子どもの頃からある、父親が捨てないで取っておいたペーパーバックの山にそれが加わるのです。加えるために買っていたのかもしれない。どんどん増えていくのです。片っ端から読んでいくのではなくて、不思議な読み方をしていた。最初のページに宣伝文句が色々と書いてあるでしょう、そこだけを読むとか。積み上げてある背表紙を眺めて、タイトルで西部劇だとわかるからそれを抜き出して読んでみるとか。
――読むものが似ているから意気投合するということではなかったのですね。
買っていた場所が同じだったということです。東京で最後の露店の古本屋、しかも洋書の。
――61年に小鷹さんに出会って、それからは「マンハント」に記事を書く忙しい時代になりますね。小鷹さんに出会う前の1960年のお話をもう少し聞かせてください。
まず先ほど話したように大学に行くまでの道のりです。そして大学に着くと喫茶店。喫茶店に行けば誰かがいるのですから。学校の近くの路地の両側は軒並みマージャン屋で、そこを歩くと二階のマージャン屋からパイを混ぜる音がザーッと降ってくる。そういう時代です。人がいっぱい歩いていて、喫茶店があって、どこか行くと必ず誰かがいて、そこで話して。
――話をしない、人見知りの人ではなかったのですか。
そんなことはないですよ。くだらないことを、ベラベラと。道行く人をつかまえて。60年安保がありましたよね。よく知らないで、喫茶店で学生活動家と喧嘩になったことがありました。
――通りでデモが行われている時代だったでしょう。
あんまり知らないから、君はどこで何をやっていたんだということになる。時代をみんなと共有するような大きなニュースを知らないということが僕の片すみ性の象徴ですよね。もちろんそんな自覚は当時なかったけれど。
――教室とか図書館には行かなかったのですか。
行かなかったな。静かにボーッとしていたいときは喫茶店ではなくて図書館ということはあったかもしれないけれど。演劇博物館は静かで夏涼しくて良かった。ベンチで昼寝していて怒られました。
――片岡さんは街の人なのですね。
巷の人でしょうね。大学に入ってから小鷹さんに会うまでというのは、高田馬場の駅から大学までの、また、神保町の道すじに集約できます。そこに日々があった。いや下北沢もあるな。
――その頃の下北沢は。
バーの時代です。バーがいっぱいあった。
――近所の年上の美しい女性たちも。
まだみんな居ました。結婚しないのです。時代の走りですね。
――女優のように美しくて。
主演女優のように。
――『坊やはこうして作家になる』(水魚書房 2000年)に電車のなかで主演女優に出会う話がありましたね。
ええ。原節子です。
――下北沢のバーには行っていたのですか。
行っていました。あれも不思議な時代だな。バーがいっぱいあって、どこに行ってもホステスがいて、カンカンに化粧をしていっちょうらを着込んで。
――最初に入ったバーは?
覚えていません。高田馬場にもいっぱいあったな。学割があって、バーテンがちゃんと入ってきた客を見て判断して、学生ですと言わなくても学割にしてくれた。
――何て良い時代でしょう。
良い時代でしょう。今は証明書を出せとか、ヘタをすると殺されてしまう。生きて帰れない(笑)。バーテンがしっかり見ていて、騒いだりしたら叩き出される。だからむしろ秩序がちゃんとある世界なのです。バーテンはしっかりした人が多かったな。チンピラ上がりのような人がちゃんと見るのです。人のことを。
――そういう仕事をしてみたいと思ったことはなかったのですか。
ないですね。大変です。酒を揃えなければならないし、酒の種類も覚えなければならない。
――バーで何を飲んでいたのですか。
お酒を飲みに行っていたわけではないけれど、ハイボールでしょうね、きっと。ちゃんと作るとおいしいのです。結局60年代は何にも属さずに、学生だけど大学にも属さずに、どんな束縛も受けないでいた時代。そして、そういうことが可能になる場所は片すみしかないわけです。
――片すみを選んだわけですか。
選んだわけではない。それほど自覚があったわけではないのです。結果としてそうならざるを得ないということです。
――居場所を探して街を歩いているわけでもないのですね。
そういうわけではないのです。困っているわけでもないし、悩んでいるわけでもない。何かないかと探しているわけではないし、まさにモラトリアムですね。
――義務と責任を負わずに自分の裁量で全てできるという点では今と同じですよね。
そうです。
――うらやましいです。なら、あなたもやりなさいと言われそうですけれど。
僕がそうだぜ、ということではなくて、いちばん良いのは自由と孤独なのです。世間ではその二つを早く失うのが良い生きかたとなっているようですけれど。できるだけ早く自由を失って、できるだけ早く孤独を消しなさいと言われる。
――孤独はあまり良いイメージになっていませんね。
残念です。孤独こそ良いものなのに。孤独だったら自由なのだから。片すみ性についても同じような誤解があると思います。
――バーでは何をしていたのですか。
わからないです。階段をあがって行って、扉をあけるというのがおもしろかったのかもしれない。ひとりで全く知らないバーに入ったとしても、当時は最年少の客だから適当にあしらってくれるのです。許容してくれる。中年の男性客に比べたら有利なのです。
――今、それに代わる場所はありますか。
ないでしょう。全くないです。残念だな。70年代の中頃にスナックに変わってしまったのでしょう。
――小鷹さんとバーで会って話すということは?
ありません。彼はお酒を飲みませんから。
60年代、小鷹さんに会うまでの日々は、一本の道筋で説明ができてしまう。自宅から早稲田、早稲田から神保町、そして下北沢。片すみにいて、片すみの雑誌に出会って、その雑誌に自分も書くようになる。
――そして「マンハント」の忙しい日々が始まるのですね。次回は1964年くらいまでのお話を聞かせてください。