コロナ

三橋圭介

コロナ。ウィルスであることは知っている。その防御の仕方も知っている。テレビやニュース記事など、いろいろな解説者や専門家たちが入れ替わり立ち替わり、ウィルスの歴史やそれが何か、どうすべきかなどを語ってくれる。生活を脅かすものに、ことばがその亀裂を埋めていく。コロナ禍、医療崩壊、緊急事態宣言、クラスター、3密、ソーシャルディスタンス、濃厚接触、パンデミック、不要不急、ステイホーム、ロックダウン、アベノマスク…。最低限の実生活はマスクをし、あまり人に近づかず、手を洗うということだけ。それだけなのにことばだけが釈明・解釈を要求されて電波のなかを飛び交っている。世界のバランスを取るためのアンバランス。そしてアベノマスク、釈明むなしい無用の長物。

緊急事態宣言となって、アントニオーニの映画を真剣に見た。英語のシナリオを手に入れ、そこにいろいろ書き込んでいく。解釈をしようと思っているわけではなく、逆に解釈から逃れようとする何かを捉えること、それは実際に見ること以外にない「直接性。いいかえるなら映画にある非物語的な隙間を見定める作業。人間関係、都市などの風景、時間の停滞など、意味するものからずれて逃れていく。カメラワークと編集による意味の断片化と中断(繰り返し)。それはアントニオーニの現実という世界への距離感であるだろう。ソーシャルディスタンス。

オンライン授業。パソコン画面に学生の顔が並ぶ。学校にいかなくていい。約往復2時間の短縮。自分の部屋で事足りる。学生も東京ではなく、地方の実家から授業を受けていたりする。海外もありだ。対面で25人くらいの授業なら1人くらいは居眠りしていてもおかしくない。だがウェブカメラの前ではそんなことはない。カメラという視線の欲望が学生を縛る(欲望の前で化粧をする子もいたな)。これはこれであり。大学というものも少しずつ形を変えていくのだろう。ステイホーム。

サントリーサマーフェスティバル(3つのオーケストラコンサート)。全体的にリミックス的な引用と多層性が耳につく。ポストモダンと呼ばれた90年代の新しい傾向の1つは多様式的なリミックスだった。DJリミックスがその代表例だろう。そのなかで高橋悠治の「鳥も使いか」は身体論も含めその最先端だった。それから30年たってアイヴス的な出会い、ベートーヴェン脱構築、いくつかのパターンの組み合わせ、引用の織物など、この流れは続いている。3密、ソーシャルディスタンス、濃厚接触、出会い方の距離はまちまちである。ステイホームと叫べども、帰るべき家はどこにもない。

コンサート。観客だけでなく、舞台上もさまざまな試みがなされている。伝統的な配置は崩れ、ソーシャルディスタンスの配置と響きがが新しい。コロナがこの新しい響きを創造したのだろうか。高橋悠治の「鳥も使いか」と「オルフィカ」はコロナ的な編成の音楽として鳴り響いた。特に「鳥も使いか」は通常のオーケストラの編成から距離をおいた配置が効果的だった。オリジナルはユーピック・システムを使った電子音と三弦の作品。高田和子とステレオ2チャンネルで聴いたことがあるが、本来は音が空間を飛びかうような作品をイメージしていたのだろう。「鳥も使いか」と「オルフィカ」はある意味よく似た作品だった。2つはソーシャルディスタンスによってあるべき姿となって濃厚接触を果たした。

猫。オンライン授業で家にいることが多かった。あいつは「おやつちょうだい」と粘るようになった。もう授業だしめんどうなのであげる。「ラッキー!」。これで味をしめた。がんばればもらえる。この繰り返し。いつしか「ちょっとふとったんちゃう?」。コロおナか、なかなかにして不用心。

白楽駅に行く途中、横断歩道の向こう側に「すき家」がある。大学でポストモダンを説明するときに必ずこの名前が登場する。多様式主義の宝庫なのだ。カレーと牛丼を足してカレ牛。うな丼と牛丼でうな牛。どれも食べたことはないし、今後も食べる予定はない。今日ひとつ発見した。横濱オム牛カレー。オムレツと牛丼とカレーがごはんの同一平面上にきれいに配置される。3密クラスター。もはや味ではない組み合わせのパズルだが、そのアイデンティティを保証しているのは「すき家(は)」という主語のみである。次は何が濃厚接触を果たすだろうか、けっこう楽しみである。