生きるための歌〜聖歌となった聖杯

三橋圭介

シコ・ブアルキ(Chico Buarque de Hollanda)に関する連載をはじめるにあたって、どうしてかれに関心をもったかを最初に書いておきたい。ひとつの歌との出会いだった。

2年ほど前、大学でアメリカのジャズの展開と黒人差別の係わりを歴史的に取りあげていた。黒人音楽でもジャズとおなじく奴隷として黒人たちの音楽に源をもつブラジルのサンバ(国民音楽となった)はまったく異なる。とくにリズムの音楽サンバとの比較は興味をそそられた。そこからショーロ、マルシャ、サンバからボサノヴァをふくむ近年のブラジル・ポピュラー音楽(Música Popular Brasileira [MPB])や文化などを勉強しはじめた。

日本語、英語、ブラジル・ポルトガル語など、手に入るさまざまな著作や楽譜集、CD、DVDなどを集めた。そこに「PHONO73」というCD+DVDがあった。これはボサノヴァの「恐るべき子どもたち」(カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなど)がはじめた前衛的な「トロピカリア」という芸術運動(1968‐69)の数年後の1973年、当時のブラジル・ポピュラー音楽の中心を担う若者たちが一堂に会したコンサートを抜粋、収録している。もちろん、トロピカリアの中心人物カエターノ、ジル、ガル・コスタが登場する。そのほかにナラ・レオン、ジョルジュ・ベン(現ベンジョール)、カエターノの妹ベターニア、エリス・レジーナ、MPB-4、トッキーニョ&ヴィニシウスなど、そうそうたるミュージシャンが登場する。そのなかにシコ・ブアルキがいた。

コンサート(DVD)では、当時のさまざまなMPB音楽を見ることができる。そのなかでとく興味を引いたのがシコとジルがうたう「Cálice(聖杯)」(詩:シコ、曲:ジル)だった。2人はギター弾き語りでうたいはじめる。ジルに対してシコはどこか投げやりで、刺々しく、精神的にいら立っている。ジルはうたいながら、シコを気にして横を向いたりもしている。しかも歌の途中でマイクが入っていないと怒りだし、止めてしまう(映像の音源には、なぜかうたっていないにもかかわらずシコのうたがかぶさっている)。そのときのシコの表情、しぐさ、斜めな感じ、さらに中途半端に終わった歌がどうしても気になった。そしてこの曲を収録しているCD(「Chico Buarque」1978)を探した(後にCDと同じ音源によるヴィデオ・クリップを収録したDVDを見つけた)。

録音でシコはミルトン・ナシメントと歌っているが、ライヴと比べると、シコの歌声はけっして激しいものではない。逆に、祈るような語りかける声でナシメントと歌を交換しながら、ことばをまっすぐに突き刺していく。しかししだいに2人の声は叫びへと変わり、ドラム連打のあと、ユニゾンする声とコーラスの呼びかけとともにクライマックスを迎える。荒涼としたその声の風景は、ヴィデオ・クリップでは途中に市民が闘争する写真が挿入され、その意味するところを補足してくれる(映像の真正面を見据えたシコのブルーの視線が私を貫く)。ブラジル・ポルトガルの詩はわからなかったが、そのいわんとするものは十二分に伝わってきた。

あとで知ったが、シコが怒って歌を止めてしまったのは、警察がかれのマイクの音を消したからだった。ジルのマイクは消されていないことからも、それが詩を書いたシコに向けられたものであることがわかる。当時、軍事政権(1964-1985年)だったブラジルでは、歌詞の内容がきびしく検閲されていた。政府を批判する歌詞は、変更を余儀なくされるか、発売されたとしてもすぐに発売禁止となった。1967年頃、シコは政府を批判する歌をうたいはじめた。翌年の1968年に逮捕され、1年ほど家族と幼少期を過ごしたイタリア、ローマに自主亡命の道を選ぶ。「Cálice」での妨害は、帰国後も要注意人物だったことを証明するものであり、映像はそのドキュメントでもある。

「Cálice(聖杯)」

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

どうやってこの苦い飲み物を飲むのか
痛みに耐え、苦労を我慢するのか
口は閉じても心は開いている
だれも町の沈黙を聞くことができない
聖女の息子であっても、それにどんな価値があるのか
他人の息子であったほうがましだ
まだくさり具合のましな他の事実
あまりに多くの嘘とあまりにひどい暴力

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

無口になりながら目覚めるのはなんと難しいことか

私は夜の沈黙に絶望している
引き裂くような叫び声をあげたい
それが他者に聞こえる唯一の方法だ
あまりの静けさに気が遠くなる
呆然としながらも注意深くしている
どんな瞬間にも観客席から
沼の怪物が現われるのをみられるように

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

(ベアトリス訳)

これは「Cálice」の詩の半分までを訳したものだが、読むといかに反政権的な内容であるかが分かるだろう。タイトルの「聖杯」は同時に「試練」を意味し、ポルトガル語のおなじ読み「カリシィ」(Cale-se)には「黙らせる」という意味もある。聖杯は沈黙を余儀なくする試練であり、軍事政権下の不自由や苦悩をコーラスの声を重ねながら呼びかけている。カトリック教徒だったシコにとって「Cálice」は黙ってはいられない皮肉に満ちた「試練」だった。

1966年「A banda」の空前のヒットによりブラジル人の心をつかんだシコは、ノエル・ホーザの再来ともいえるマルシャやサンバを書き、その姿勢をトロピカリアの人、カエターノに批判されたこともある。しかし5枚目のアルバム「CONSTRUCÇÁO」(1971)で一変する。デビュー当時の愛称「青い目の貴公子」というアイドル化された自己を拒絶するように髭をたくわえ(ジャケット写真のシコは攻撃的な、覚めた視線でこちらを睨んでいる。ライヴのシコもおなじ髭と視線がある)、一人の生活者、表現者として現実をみつめる歌を自らたぐりよせた。そのどんより重苦しい空気や世相をあぶりだすことばの刃はこの「Cálice」へとダイレクトに結ばれている。

「芸術は自由のなかにあってこそ発展するものだ」。シコは書いた。しかしこうもいえる。自由のなかで伸び伸びと歌を書くより、軍事政権下の検閲をかいくぐるように比喩や象徴などを使って黙した声を荒げ、訴える、そこに芸術家としての真実の声があぶりだされる。だからこそ単なる歌詞ではなく、詩でなければならなかった。「Cálice」はシコ・ブアルキにとって「生きるための歌」だった。歌はライヴのあと禁じられ、10月には再び逮捕される(74年から75年、シコの作る曲はすべて禁止された)。「聖杯」はプロテスト・ソングとして独裁政治と戦う「聖歌」となった。