ウクライナとパレスチナ

さとうまき

毎日TVは、ウクライナの戦況を伝えている。世の中は、かなりヒステリックになっている。何か世界の秩序が大きく変わるかもしれない。核戦争が始まるかもしれない。メディアがあおっているだけかもしれないが、僕もヒステリックに染まって行く。ロシア料理のお店に行き、ボルシチを食ったりして気持ちを落ち着けている。

  パレスチナ人の歌手の夫がウクライナ人

そういえば、パレスチナの歌手、リム・バンナの夫のレオニード・アレクシェンコがウクライナ人だということを思い出した。レオニードとは、リムがモスクワの高等音楽院に留学していた時に出会い結婚し、バンドを組んでいた。

1999年のこと。僕は、JVCというNGOで働いていて、パレスチナ西岸のラマッラーという町に住んでいた。たまたま歩いていたら幼稚園らしき建物から素敵な歌声が聞こえてきたので覗いてみると、彼女が子どもたちのために歌っていたのだ。

ジャズピアニストの河野康弘がパレスチナに来てくれるので、エルサレムで何かコンサートができないか思案していた。これはちょうどいいと思い、連絡先を交換したのだ。町で売っていたカセット・テープを早速買ってみる。子ども向けの曲が大半だったが、JAZZバンドにも合わせられると思った。

さっそくナザレまで出かけて行って出演の交渉をした。ナザレは、イエスキリストが生まれた場所だ。教会を見学し終わるとリムが車で迎えに来てくれて、家まで連れて行ってくれた。当時は、1993年のオスロ合意を受けて和平プロセスが曲がりなりにも進んでいた。イスラエルとパレスチナが共存して平和へ向かうことのシンボルとして”ユダヤ人とパレスチナ人が一緒に何かをすること”がブームになっていた。

その一方で、妥協や譲歩を許さずイスラエルと闘い続けるべきだとするハマースを支持する人たちもいた。僕はどちらかというと前者で、平和イベントをもりあげたいという気持ちもあったが、難民の子どもたちが「僕たち難民は、和平合意の蚊帳の外におかれている。これが平和なの?パレスチナという国ができて、そこに帰れない限り平和なんてない」という話をよく耳にしていたから微妙だった。

思い切ってリムに「今まで、ユダヤ人と一緒にうたったことがありますか?」と聞いたら、「先日、スイスのダボスというところで経済フォーラムがあり、NOAというユダヤ人と一緒に歌ったわ。イマジンという曲で、私がアラビア語で一番、彼女がヘブライ語で2番、最後は二人で英語で歌ったわ」という話をしてくれた。
「イ、イマジン? ジョンレノンの?」僕は思わず口ずさんで、「これですか?」と尋ねた。
「歌い終えたとき、パレスチナの人達も駆けつけてくれて、私はパレスチナのために歌う意味を感じたの」
鳥肌が立った。
「でも、今は、そういう歌を歌う時期じゃないわ」と言う。

NOAというアーティストは、イエメンにルーツを持つユダヤ人で、左派と言われている。1995年、ラビン首相と一緒に平和集会のステージで歌っていた。僕は、その時の映像をなんとなく覚えている。ラビンがとてもへたくそな歌を歌詞カードを見ながら歌っていた。直後ラビンはイスラエルの過激派の青年に射殺されたのだ。平和の詩の歌詞カードが血に染まっていた。
「もし、ラビンの歌がもう少しまともだったら、青年は発砲するのをためらったのかもしれない…」
ずーっとそう思っていた。

ラビン暗殺のニュースを知った時、僕はシリアにいた。「ああ、和平はどうなるんだろう」と、同僚のパレスチナ難民に聞いたら、「テロリストが死んだだけさ」と言って笑っていたのが印象的だった。難民の帰還は和平が進もうが見通しはなく、置き去りにされるしかなかったのだ。

リムは言う。「私は、政治的な歌を歌います。マフムード・ダルウィーシやタウィーク・ズィヤードの詩や私の母も詩人で、彼女の詩に歌をつけたりして歌っています。そしてもう一つは、パレスチナのフォルクローレ。若い人たちは知らない。パレスチナ人としてそういった歌を歌うことにミッションを感じているんです」

  エルサレム・コンサート1999

エルサレム・コンサートでは、オーストラリア人でサックスをパレスチナ人に教えていたグラントがジャズのベースとドラマーを連れてきてくれて、1部では河野康弘のピアノでスタンダードを演奏した。2部では、リムがイスラエルの刑務所に入れられたパレスチナ人にささげた「ハイファの風」をうたい、パレスチナ民謡の「ハラララレイラ」という曲には河野らのバンドが加わった。

 ハイファの風

あの人にハイファの海の風をあげてください
独房にいるあの人に、ジャファの風をあげてください
なぜならば、独房の中はあまりにも、寒くて、暑い
彼を一人にしないで。独房の中はあまりにも寂しいから

アンコールには、河野のオリジナル、「わっはっはのブルース」。笑うと元気になるということで観客がわっはっはと337拍子で笑い続けなければならないというブルースで、子どもがステージに上がってきてピアノを弾いたりする即興だった。 リムとレオニードは、スキャットで参加してくれてとても盛り上がったのを思い出す。「わっはっはって平和が来ちゃうといいよね」と本気で思える瞬間だった。でもステージを降りると現実は厳しかった。

あれから、パレスチナは第二次インティファーダが始まり、気が付くと911。世界はテロとの戦いへと突き進んでいったのだ。イスラエルの国家安全保障会議の議長が行っていた対テロ戦争の方法を思い出す。
「蚊を退治することを考えてください。直接叩き落す。そしてとんでこないようにスキンガードをする。そして、ボウフラがわかないように徹底的に攻撃するのです」
僕はというと、イスラエルから追い出され、イラクへ行くことになり、戦争をいやというほど見せられたのだった。気が付くとエルサレム・コンサートから22年以上もたち、僕も老人になっている。

ウクライナで思い出し、リムはどうしているのかググってみた。ナザレで3人の子どもと暮らした、と過去形になっている。レオニードはどうしたんだろう。離婚したのか。で、あ? リムは2018年に亡くなっている。2009年から乳がんと闘っていたらしい。彼女が亡くなってからリリースされたアルバムが、Voice of Resistanceだ。

PVを見てびっくりした。リムが放射線治療を受けている。パレスチナを表現するような詩の間に、彼女が自分の治療の状況を語っているのである。

海の苦味のように、心臓には秘密があり、オリーブの木が岩の固い部分を割り、雨の水を飲み、私の血管にオリーブオイルを流してください。
「こんにちは、今、ベルリンです。呼吸困難になり、そして悪化したので、今病院に来ています。」

かつてのような美しい声はない。治療のせいで声帯もやられてしまっていたらしい。彼女が死と向き合っている。パ・レ・ス・チ・ナ! リムとノアの歌うイマジンを聞いてみたかったのに

ウクライナのことを調べていたのにパレスチナのことが悲しくなってきた。