赤ベコがアラブ人にとっては豚のように見えるらしい。そこで、いろいろ考えてサッカーのベコにしてしまえという奇策を編み出した。しかしもうこうなると、赤い牛という本来持っていた無病息災のパワーがなくなってしまうのだ。まさに、赤ベコは会津地方に天然痘が流行した時に子どもを病気から守るお守りとして重宝されたのだ。
シリアの小児がんの子ども達も封鎖が続き病院に行くのも大変だ。我々が支援しているイブラーヒーム君8歳は、サッカーが大好きでFCバルセロナのメッシのファンだという。久しぶりにサカベコを作りってイブラーヒーム君に送ってあげたいなあと思ったのだ。
コロナ禍は我が家にも襲ってきた。10歳の息子が1月に、札幌から倶知安に転校して、あまり学校になじめていなかったそうだが、コロナで学校が休校になり、STAY HOMEで母親との関係に行き詰まり、部屋に閉じこもってしまったという。それで、しばらく面倒を見てくれないかと別れた妻に頼まれたのだ。
うちの息子は、何か役に立ちたいと思いながらも、思春期に差し掛かり、自分ではどうしていいかわからずに、癇癪を起していた。
「あのさあ、君とね、同じくらいの男の子ががんと闘っているんだけどさ、ちょっと手伝ってくれない?」
いやだ、いやだ、を繰り返す息子も、素直に顔を赤く塗って目とか口を描いてくれた。で、水牛の角を付けたらどうだろうって話になり、紙で角を作ってみるとこれは、どう見ても水牛。豚には見えない!
ところで、シリア人は水牛を知っているのかなあ。イラクには水牛いたけどシリアにはいるのかなあと思ってググってみると面白い記事を見つけた。
https://www.middleeasteye.net/features/where-they-no-longer-roam-syrias-disappearing-water-buffalo
水牛は、普通の牛より空腹にも耐え、乳を出す量も多いらしい。水牛のミルクから作ったゲマルと呼ばれるバターというか生クリームはとてもおいしくて蜂蜜や、ナツメヤシのシロップと一緒に食す。イラクでも南部バスラの湿地帯でよく見かけた。
シリアでもハマという町の北部は、オロンティス川が流れ、水牛の放牧が盛んだったらしい。しかし、2011年の内戦が始まると川を挟んで、アサド政権と反体制派が激しい戦いを繰り広げる。この地域にいた水牛は600頭から200頭に減った。戦闘が激化して、避難するために水牛を置き去りにし、飢え死したり、食肉用として屠殺されたり、実際に空爆や銃撃戦で水牛が被弾して亡くなった牛もいる。
この記事は2017年に書かれており、今はこの地域は完全に政府軍が支配している。牛飼いたちは、また水牛の放牧を始めたのだろうか? 水牛を追い求めてまたシリアに行きたくなった。水牛のベコはきっと戦争とコロナで疲弊したシリアに福をもたらすはずだ!
さらに調べていくと2004年にシリアで発行された水牛の切手が出てきた。私がシリアで働いていたのは1994年から96年だったが、もちろんその当時はインターネットなんかなかった。電話すらアパートに引くことはできず、国際電話をかけるのには電話局に行って、とてもめんどくさい手続きをしなければならず、一度もそういうのは使ったことがなかった。日本には手紙をよく書いた。切手はというとアサド大統領(当時はバッシャールの父のハーフェズ)の肖像画。値段が違うと色違いになるだけ。ベロンと独裁者をなめるのはどうも気が引けるし、苦い味がするに違いない。しかし、それ以外の選択肢はないからひたすらべろんべろんとなめ続けた。民主主義がないというのはつまりそういうことなのだ。
そのあと1997年からパレスチナで5年間暮らしたが、当時は、パレスチナ自治政府ができて、初めてパレスチナの切手ができたというニュースで沸いていた。切手はというとアラファト議長。ベロンとなめると甘かった。民主主義は置いておいて、彼岸のパレスチナ切手だから苦い筈はない。そしてイラクに行くと今度は、サダム・フセイン切手。さすがにイラク戦争のころはインターネットでの通信ができるようになり、切手はお土産に売ってただけでなめる必要はなかったが相当苦そうな感じ。
この水牛切手が発行された2004年といえば、シリアはすでにバッシャール大統領に代わっていたが、バッシャール大統領は当初は、自身を偶像崇拝の対象にはしたくないというタイプだった。そしてインターネットの通信がシリアでも主流になりつつあったので、バッシャール切手は作られなかったのだと思う。2011年の内戦をしぶとく生き抜いたバッシャールは、立派な独裁者になっていて、先日シリアに行くと2000シリアポンド紙幣にバッシャール大統領の肖像画が刷り込まれていた。まあ、お札はなめる必要がないので救われるのだが。
ともかく、これからは、水牛のベコが活躍するので乞うご期待ということで。