月末までに書きあげようと思っていた新曲は未だ仕上がらず。この場に及んであろうことか、昨日一昨日は眩暈にやられて、30時間ほど昏々と寝込んでしまいました。関係者のみなさんには、ただただ申し訳ない思いに駆られています。
本日イタリアの死亡者総数は70人。新感染者数は593人。ロンバルディア州知事は、これなら6月3日以降ロンバルディア州を完全に開放可能だろうと話しています。現在イタリアの確認されている感染者総数は231732人。そのうち快復者は150604人で64パーセント。死亡者総数は33142人で14.3パーセント。現在の患者総数は47986人で20.7パーセントと書かれています。
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5月某日 ミラノ自宅
明日からイタリア開放への一歩が始まる。15人までの制限つきながら、禁止されていた葬式がようやく再開。
初めてスクリャービンの自作自演で2番ソナタを聴く。聴いてみたかった演奏に思いがけず近くて、愕いた。特に声部は整理されないから、むしろ雑然とした印象すら与えるかもしれない。ただ、それぞれの音が一つの空間に同等にきらめき、漂い、主張しながら、感情には流されない。聴かせたいものを提示するために音があり、感情発露の手段ではない。
1969年の北イエメン国歌を、誤って新国歌で作り、一から作り直し。イタリア一日の死亡者数は174人まで減少。総計28884人の死亡。快復者81654人で17242人が入院中。
5月某日 ミラノ自宅
封鎖解除2日目。朝五時半、二か月ぶりにナポリ広場まで歩く。この時間は人通りもなく、今までと変わった印象はない。敢えて言えば、使用禁止だった24時間営業の自動販売機が使われていたことくらいか。パン屋より先に足を延ばしたのが2か月ぶりで、遠出を禁じられていた子供が、冒険心につられてちょっと遠回りするような新鮮さは味わうことができた。
7時半にパン屋に出向き、封鎖が解けて何か変わったか尋ねるが、やはり今日のところは余り違いはないと言う。「未だみんな怖いんでしょう」。日本政府は非常事態宣言延長を発表した。
朝10時から夜8時半までズームを使って授業。いつも教室で教えていても十分疲れるものを、オンラインで教えれば、教師も学生も困憊は倍増する。朝5時過ぎから作曲したが、困憊しきった夜はほとんど机に向かえない。オンラインでの授業はおそらく秋以降も続くだろうと聞いた。
6月以降許可される予定の限られた教室の使用は、指揮や室内楽のレッスンなど、どうしても対面でなければ出来ない課程に宛がう必要があって、教室もそれぞれ広さによって入れる人数が厳しく制限されている。一番大きい講堂ですら同時に入れるのは最大10人で、何時もレッスンや授業に使う109番教室は最大5人というから、指揮の個人レッスンは伴奏ピアニスト2人入れても何とか使用可能だが、15人、20人と学生が集う耳の訓練の授業など、現在の状況では到底教室では行えない。
学校のマッシモとズームで話す。現在の状況は、深い霧の中、船乗りが目視で恐る恐る進んでいるようなもの。来年以降のことなんて想像も出来ない、と笑った。とにかく今年のカリキュラムを片付けなければならない。指揮レッスン補講は9月後半文字通り毎日入れてやりくりし、来年度の始業も一ケ月遅らせる運びだと聞いた。
5月某日 ミラノ自宅
無限に並列された情報に塗れていると、選ばれた言葉や音の方が、ずっと心の深い部分に沁み通るのを改めて実感する。言葉や音は感情表現の手段として発達してきたが、古来それは不完全なままであって、言わば四捨五入された表現とすらよべるものであった。
かかる端数が切り捨てられた大雑把な表現だからこそ、伝える内容に幅が生まれ奥行きが広がり、それらの歪さが豊かな表現を生み出して、我々に強い印象を残すのだろう。
戦後、コンピュータ開発が進み、大雑把だった素材が悉く現実に肉薄するようになり、人間の表現能力、判断能力を超えるようにもなったが、それは四捨五入の時代、読み手や聴き手が無意識に補っていた、人間本来の想像力すら侵食しつつあるのかもしれない。
形にして録音を残す意義、後世に資料を残す責について思いを巡らす。消費とは何か。今まで消費と効率ばかりが評価基準に充てられてはいなかったか。
ここよりもう少し郊外にあるチスリアーノで、血清実験開始。今日は195人が亡くなり、1225人が快復した。
5月某日 ミラノ自宅
美恵さんへのメール。
「イタリアに予定調和は皆無ですが、各人が毎日の人生を大なり小なり発明しつつ生きぬいてきていて、肝が据わっているかもしれません。政府を信じてもいないし、自国を持ち上げる気風もないけれど、他の欧州諸国より優れた文化を育ててきた妙な自尊心もあって、不思議な国です。昔から列強のヨーロッパ諸国から植民地扱いされてきているから、強かなところもあり、結局他国を信じていない」。
そんなイタリアが事もあろうにCovid最初の感染拡大国となり、急遽防疫体制を仕立て、欧州から援助も得られぬまま、孤立無援で対応を迫られた。その後、結果的にイタリアが作った防疫体制を各国が倣い、それを下敷きに各国が対応に当たった。有事で何より重要なのは、潤沢な資金だとイタリアの誰もが痛感させられた。本日クレモナの死亡者は0人で、73日ぶりだそうだ。
5月某日 ミラノ自宅
朝4時半、家のすぐ傍で、保線車両が大きな汽笛を鳴らした。封鎖解放に併せ保線作業を進めているのだろうか。
朝5時過ぎ、ナポリ広場に向かって歩いていて、身体の強張りを不思議におもう。数か月間の思考の強張りが身体にまで影響しているのかもしれない。この時間、鳥たちの囀りが賑やかで、全方角から燦燦と降り注ぎ、人間より余程知能に長けているように聴こえる。我々が進歩と信じてきたことは、著しい退化の一途ではなかったのか。ふと疑心暗鬼が頭をもたげる。
フランクフルトよりAさん帰国。空港での検査は陰性だったが、暫く空港周辺のホテルを借りたとメッセージが届く。
「思い出すと辛くなるんです。色々とよい経験をしたのに、よくわからない怒りがこみあげてきたりして。何とも言えない気持ちです。誰が悪いわけでもないし」。
イタリアの不法滞在者をこの機会に正規滞在者に認定し、アスパラガスやイチゴの収穫に借り出す試案をベッラノーバ農林政策大臣提出。不可視だった不法滞在者をゲットーから解放し、健康管理をすることこそ、イタリア国民全体の安全に繋がるという。
イギリスの死亡者数がイタリアを上回ったが、それでもイタリア国内で1444人もの新感染者。369人の死亡者と8014人の快復者。
5月某日 ミラノ自宅
月。赤く巨大な月。早朝歩いていると、目の前で月が沈んでゆく。月も燃え尽きるようにして沈んでゆく。庭の階段の下に、燕が巣を作ろうとしている。
朝パン屋に出かけると、このところ、以前より街に人が溢れていて怖いという。毎日日がな一日家で仕事をしていると変化を感じない。家人にはサティのVexationsを全世界とズームで繋いで一日がかりで演奏しようとの誘いが届いた。Aさんからは2回目の検査も陰性と連絡が届く。記憶に蓋をして溢れる思いを堰き止めていると言う。
イタリアは今日一日で243人が亡くなり、総計30201人に達した。イギリスに次ぎ、3万人を超える犠牲者を数える。
5月某日 ミラノ自宅
ニグアルダ病院のベルガモーニ先生とやり取りをし、小児科・小児脳神経科が担当している社会的有用性の非営利団体あてに日本のAAR難民を助ける会から寄付金1万ユーロが届けられる運びとなる。柳瀬房子さんからの有難いご提案を押し頂いた。
ニグアルダ病院に寄付する、と言っても、受付先は何ヶ所かあって、そのどこにするかを何度か相談した上で、結局寄付金の使用用途が確認し易く、covidで治療に支障をきたしている子供たちの話を伺い、息子もお世話になった小児脳神経科へ直接寄付を決めた。Covidのため病院で受け入れられなくなった、遠隔治療を強いられる家庭への支援器具等も含まれている。
深山さんより新しいCDが送られてきた。彼女と音とを真空の空間が繋いでいて、音が発せられる瞬間まで、彼女の感情は無為に音を歪ませない。
5月某日 ミラノ自宅
現在のところ、まったく使う必要のない公共交通機関だが、今後はバスや路面電車に乗る際、手袋をしなければいけない。使い捨てゴム手袋をスーパーや薬局で探すが、全く見当たらない。息子が通っていた小学校前の文房具店が思いがけず開いていて、A4コピー紙を購入した。「どうなるのかね」。久しぶりに女店主と話す。「とにかく仕事しないとね。先ずは学校が開いてくれないことにはね」。
もう何年も指揮伴奏を担当してくれているマルコに女児が誕生し、写真が送られてきた。不思議に、自分が最初に息子を抱いて撮った写真や、家人の写真にも似ている。母親は出産の大仕事を終えて、顔つきが似るのも分かるが、父親の姿もどことなく似るのは面白い。小さすぎる赤ん坊に少し戸惑い、初めて抱くと、これでいいのか、という表情になるのが初々しい。
友人より日伊便6月欠航決定の知らせ。「今朝延期のメッセージを見て、気持ちが崩れ落ちました。メッセージには、ほぼ世界全土の長距離便キャンセルが書いてあり、事態の深刻さが示されていました」。153人が亡くなった。封鎖後最も低い死亡者数という。
5月某日 ミラノ自宅
誰もが少しずつ精神を病んできている気がする。子供の頃から、時として無性に叫びたくなることがあったのを思い出す。ベッラノーバ大臣が不法就労者を正規化する法案を成立させ、涙ながらに発表。朝歩きながら、何箇月も全く人と触れ合っていないことに気付く。当然ながら、釣銭一つ手を介してやりとりしていない。2月には、アメリカにいたジョンのお母さんがCovidで亡くなっていた。
ベルガモでは墓地が開いた。ウクライナの国歌を書いている最中、2014年スラヴャンスク紛争で命を落としたイタリア人報道写真家アンドレア・ロッケルリの記事が新聞で目に留まり、ルワンダの国歌を書いているとき、フェリシアン・カブガがパリで逮捕と知る。偶然に違いないが、これらの出来事が日常とこれほど近しいとは、全く気付いていなかった。
レプブリカ紙、ピッコロ劇場演劇アカデミー所長インタビュー。
今回の事態についてアカデミアは、来年度の大学初等課程に相当する三年コースを特例として一年増やし、そのうち半期は本年度分の捕捉に充て、残りの半期は続く上級課程に等しい準備期間として充実させると言う。授業料の問題や教師の補充さえ解決できれば、理想的な方法には違いない。
古来、演劇は幾度となく伝染病を乗り越えてきた。だから今回どんな状況で置かれても、きっと演劇は未来に残ると確信し、より深く踏み込み、充実した授業計画を立てたと語る。何かを信じている。
ストラヴィンスキーは迫りくるスペイン風邪流行の中「兵士の物語」を書いた。彼自身もスペイン風邪で床に臥したのち、ディアギレフの依頼で「プルチネルラ」を書き、結果的にそれが彼の新古典時代を切り拓いた。しかしこの古典回帰は、本当にディアギレフだけが切っ掛けだったのか。第一次世界大戦や感染症で荒廃した世界は無関係だったのか。無意識であれ、何か顧みる思いがそこには生まれなかったのか。今後、我々がどうなってゆくのか興味がある。
94人の死亡者。そして2月以来初めての500人以下の新感染者数。
5月某日 ミラノ自宅
2月、家人が自分で開けたシャンパンの蓋を、誤って自分の眼に命中させた。翌日どうも調子が変だと言うので、二人で救急病院に出かけ順番を待っていて、不安に駆られた家人から、結婚して一番幸福だった思い出を尋ねられた。
家人曰く、息子の出産だと言う。暫く考えて、自分には、息子が退院した時が一番幸せだったと気が付いた。退院した日そのものの記憶は曖昧だが、その前後の日々をまとめて、幸福を噛みしめていた。窓を開けると、小さなトカゲが頭を傾げ、こちらをじっと見つめていたが、暫くして逃げてしまった。
家人より「お父さんがすべて間違っている。あのままミラノにいれば無駄なお金も使わず、離れて暮らす必要もなかった」との息子の言葉を聞き、妙に嬉しい。
結果的に彼がそう思える状態こそ、この不自由な日常で最良の選択だったと思う。漸く自らの選択に納得することができた。今回の事態に限っては「何もこの必要はなかった」と云われる程度で丁度良い。
5か月ぶりにミラノ大学の前まで散髪に出かける。ナポリ広場より先へ出掛けるのは4か月ぶりだ。
マスクをつけて自転車を漕ぐと息苦しく、急いではいけない。人通りはほぼ前と同じに見える。もっと感動があるかと思ったが、不思議なもので、全て夢のようにも見える。
車の通りも前と変わらず、抜け落ちたこの数か月の実感が湧かない。バスや地下鉄を使えば違うのかもしれないが、一人で自転車を漕いでいる限りでは分からない。
今も自分の精神状態が以前の通りに戻ったとも思えないが、少なくとも2月から5月の半ばまでは、特に緊張を強いられていたのはわかる。鏡に映る自分の姿が老けたように感じるのは、白髪が目立つからだけなのか。ところで一日中、あちらこちらで教会の鐘がひっきりなしに鳴っているのは何故だろう。
何年も連絡が取れなくなっていた母の姉の消息が思いがけなくわかる。残念ながら、叔母は2年前に既に他界していた。
こうして書き出しながら、頭の中を空にしてゆく、頭の中の要素を少しずつ減らしてゆく。すると必要なものが漸く見えてくる。
5月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めて間もなくだったから、もう25年近く前、当時ライプツィヒに留学していた同期のピアノの学生と二人でベルガモの街を訪れた。彼がライプツィヒをそろそろ終えるから、とイタリアを訪問したような記憶もあるが、定かではない。
初めてベルガモを訪れ、どのようにして丘の上の旧市街まで着いたのかも、今となっては思い出せない。ただ覚えているのは、コルレオーネ礼拝堂の荘厳なだんだら模様のファサドと、その左隣、聖母大聖堂(サンタマリア・マッジョーレ)の翼廊口に鎮座する、二頭の赤獅子像のみなのは何故だろう。印象的な赤味を帯びたヴェローナ石で彫られた獅子たちは、長年の手垢でてかりを帯びていて、1353年ジョヴァンニ・ダ・カンピオーネの作だと言う。なるほど、当代一の彫刻家の作だから、印象に残ったのかも知れない。
その時、日本の神社の境内の狛犬に似ているのが不思議だったのと、古い微かな記憶の奥で、小学校三年生終わりの自分が、狛犬の上で遊ぶ小学三年生の自分が写りこんだ、日に焼けたモノクロのスチール写真を思い出していた。
この写真は、代々木八幡神社の境内で、大原れいこさんが写真家の人と一緒に番組用に撮ってくださったもので、恐らく今も町田の実家のどこかに残っている。
当時、母がマッシュルームカット風に髪を切り揃えてくれていたから、狛犬に跨り、その長めの髪を垂らして、愉快そうに斜め下に視点を落としていた覚えがある。
何十年も経って沢井さんと野坂先生の演奏会に大原さんが駆けつけて下さったとき、初めて紹介した息子は、ちょうど同じ歳頃だった。彼女の記憶はそのころの洋一くんで止まっていたから、何度となく息子に向かって「洋一くん」と声を掛けては、「あらごめんなさい、また間違えちゃった」と無邪気に笑っていらした。
どういう経緯で、大原さんと今井さんの間で「子供の情景」のアイデアが持ち上がったのかよく分からないが、ともかく大原さんから頼まれた「子供の情景」を書いているとき、左半身が麻痺した息子と二人で、ニグアルダ病院のよく冷房の効いた病室から、暑く気怠そうな外の風景をぼんやり眺めていた。
大原さんと最後にお会いしたのは、表参道の路地裏にある彼女の行きつけの蕎麦屋だった。岡村さんと三人でささやかに彼女の誕生日をお祝いした。道すがら、すっかり元気になった息子が、この夏アイルランドに英語研修に行くと張り切っていると話すと、彼女もアイルランドがとても好きなこと、オハラという名字がアイルランドにあって親近感を覚えてね、などと、嬉しそうに話していらした。
あれから、ほんの短い電話だけは何度か通じたけれど、殆ど会話らしい会話もできぬまま、先日届いた訃報に言葉を失った。
「考えれば考えるほど寂しくなります。どうしてでしょうね。天国にいらっしゃるはずなのに。遠いんでしょうかね」。そんなことを岡村さんに愚痴ったりした。
今朝、荒木さんから「子供の情景」のヴィデオがインターネットに載せられていると便りを頂戴して早速拝見した。最後に大原さんと演奏会でお会いした時の記録だった。
5月某日 ミラノ自宅
三善先生から頂いた端書を棚に飾り、毎日何となしに眺める。ざくっとした太めの筆感、しっかりとした指先で、じっと筆重をかけ、ねじこむように書かれた筆跡を眺めると、無意識に背筋が伸びる。
軽井沢から送られてきた端書だが、裏面には瀬戸内海の風景画が描かれていて、何故だろうと思う。すると、何の気なしに階下に足が向かい、気が付くと寝室の書棚から詩画集「いきてる」を手に取っていた。三善先生が詩を寄せ、雨田光弘先生が絵を描かれたもので、町田とミラノと一冊ずつとってある。
夜明け、ふらふらと病院に吸い寄せられるようにして思いがけず立ち会った祖父の臨終のように、自分の意志とは関係なく、誰かに呼ばれるようにぼんやり手に取っただけだが、ふと函に書かれた先生の題字に目を落とすと、突然涙が溢れた。
「いきてる」と先生の声が聞こえた。
何年も開けていなかったから、蝋ひき紙にくるまれた布表紙の本を出すのに苦労したが、目にした途端、年甲斐もなく号泣した。この数カ月身体に溜まっていたものが突然噴出したように、誰もいないのを幸いに声を上げて泣き、木の机の涙の染みを腕で拭いつつ日記を書く。
いきてる 三善晃 1986年
こないだ おかしかったな
いもうと
ふたりでけんか してたら
とうちゃんが おこったろ
なにしてる って
いきてる と おれ
いきしてる と おまえ
とうちゃん ぽかんとしてたな
それから
そりゃ すばらしい がんばれ
だとよ
—
ひとりでいると
みんながいる
みんながいると
じぶんがいる
なにもないとき
ぜんぶがある
みたい
おれが ぜんぶだ
なにもないから
—-
ここで
ながいこと おまえを
まっていた のは
おまえがいないことは
なになのか を
おれにわからせるのに
どれだけひつようだ と
おまえがかんがえたのか を
かんがえるため だったのさ
—(中略)
あそうぼうぜ みんなと
あそびのはじめは
だれもえらくない
あそぶと
えらいやつと
えらくないやつが
できるけど
それだけさ
あしたはあした
はじめから
—
おまえが なけば
おまえのなかのおれは
たいがい なく
みんなが わらえば
みんなのなかのおれは
たいがい おこる
おれは しねない
いそがしくて
ややこしくて
—
ずいぶん
いじわるしたな
おまえに
いじめたな
おまえを
けっこう たのしく
おれのしたことで
おぼえているのは
それだけだ ほんと
だから おれが
ごめん いったら
それだけよそれだけよ
いみ あるのは
それ
いつか いう
—
いきてるか
と おれがきいたら
いきしてるか
と おれにきいてくれ
いもうと
いもうと
あき
はなみずきのめが
らいねんのはるを
だきしめている いま
(5月29日ミラノにて)