コロナ禍で、すっかり忘れてしまいそうだが、終戦75年の夏をまもなく迎えるのだ。なかなか、広島や、長崎に行くこともできないのだが、やっぱり戦争のことをしっかりと考えたいものだ。
僕は、清瀬に住んでいる。清瀬には、非核平和宣言都市という大きな看板があちこちにあるが、原爆ドームのような戦争に関する歴史的なものは見当たらない。結核療養所(現結核研究所)や、ハンセン氏病の療養所(正確には東村山市)や、その他大病院がいくつか連なっているために、病院の町として有名だ。清瀬で戦争を考えるのにはどうしたものか。
僕がなぜ清瀬に住んでいるかというと,オヤジが気象庁につとめていたので、気象衛星センターを設立する際に呼ばれたのである。当時中学3年生だった僕は、センター内の宿舎で暮らすことになった。
センターの前身は、気象通信所で米軍の大和田基地内にあったそうだ。もともとは日中戦争開戦時、アジア太平洋地域の無線受信および傍受目的の基地として建設された。第二次世界大戦中には、真珠湾攻撃の成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」を受信した。また、原爆投下に関する電信を傍受するのもこの通信所の役割であったという。
米軍基地となった通信所は、ベトナム戦争では重要な役割を果たしていた。僕が、清瀬に来たときはすでにベトナム戦争は終結して一年がたっていたけど。通信所の周りは不思議な空気が張り詰めていた。この地域は日本の中でも通信状態が極めていいらしいから、まさにいろいろな通信が飛び交っていたのだろう。
気象庁の土地があったので、私たち家族は、そこを借りて家庭菜園をやっていた。フェンスの向こう側には、米兵がいて不思議な感じがしたものだ。洋館風にこしらえた建物が廃墟になっていて僕はよく忍び込んで、いろいろな物語を想像してみるのが楽しかった。この建物は米兵相手の売春宿で、時には映画監督のように、「24時間の情事」のような作品に仕上げてみる。あるいは時には、つげ義春の漫画の世界のように。満月の夜になると、わくわくしてきてよく自転車で出かけて行った。
先日、92歳になる親父を車に乗せて久しぶりに出かけてみた。あれから40年以上も立っていた。米軍基地はまだあった。前は、道路が基地の入り口までつながっていたのだけど、今は通行止めになって、さびれている感じがしたが、地下には巨大な基地があるのかもしれない。もっと大きな宇宙戦争に絡むような計画がひそかに進められているのだろう。ここに来ると、本当にいろいろな妄想が湧き出てくる。
今から思えば、初めての国産の気象衛星を打ち上げるという国家の一大任務の傍らを担っていたオヤジは、大したものだと思う。その当時の僕は、国家のことなんか全然わからなかったからただのクソガキだった。
「畑耕したよね」オヤジと思い出話をした。オヤジは嬉しそうだった。なんだか、時空を超えて、宇宙にもつながったような気がした。そうそう、戦後75年の話をしようとしていたんだね。随分話がそれてしまったけど。また、大和田通信所に通信を傍受しに行ってくるよ。