リームがやってくる。やあやあやあ!

さとうまき

その時。斉藤くんは、イラクで苦労していた。

うちで働くシリア難民のリームをまだ8カ月にもならない娘と一緒に日本に連れてくるという上司のアイデアは、大歓迎だったが、娘のパスポートを作るために、イラクからダマスカスに行く必要があった。

リームは難民として、イラクで暮らしているが、シリア人だからシリアに帰るのは何ら問題がないのではあるが、イラクに再入国できるようにいろんなところから許可をとらないといけない。そういう面倒な仕事を斉藤くんが任されていたのである。

しかもだ、予定が狂いまくり、一か月早い来日に! そうなると、斉藤くんは、パニックになってしまった。(と想像する)リームも許可が下りずに、精神的にも疲弊していたようである。残された時間はわずか。本当に来日できるのか。と心配していたら、斉藤くんは弾むような声でメッセージを送ってきてくれた。無事にパスポートがとれたらしい。リームは世界難民の日に絡んだ6月30日に広尾で開催するシンポジュームに参加することができそうだ。ところでリームって誰?

2011年3月、リーム・アッバースは、シリア内戦が始まった時、高校を卒業し、ダマスカスの看護学校の学生になったばかりだった。若者たちが、自由と民主主義を掲げ、声をあげたとき、どのように感じていたのだろう。「自由とか、民主主義とか言う言葉はとても新鮮だけども、今のままでも、私たち貧しい一家にとっては、タダで学校に行けて、給料は安くても看護師になれるから。」

彼女はクルド人だった。クルド人は、シリアの中では、差別されていた。国籍を与えられない人もいて、彼らは高校までしか行けないし、働いても低い賃金しかもらえない。ダマスカスから始まったデモンストレーションは、クルド人にとっては成果を上げていた。シリア政府は彼らに国籍を与えたのである。しかし、民主化運動が暴力的な戦いになるとすべては壊されてしまった。

リームは、3人の同級生の女の子と一緒に暮らしていたが、国立の看護学校は、負傷した兵士の手当てに駆り出されるから、体制側とみなされる。学校が襲撃され、ルームメートが誘拐されて帰ってこなかった。自分もブラックリストに載せられていると知らされ、親戚が迎えに来てくれてダマスカスを去ったのだ。生まれ故郷のカミシリに戻ったが、さらに町から一時間も離れた田舎だったので、内戦が激しくなると村が孤立してしまい、2013年に難民として、イラクのクルド自治政府の首都であるアルビルまで逃げてきて、難民キャンプに収容されたのだ。

2013年、私が難民キャンプを訪れたとき、リームは、ほとんど英語もしゃべれなかったが、キャンプ内にできたクリニックで、ボランティアとして働いていた。キャンプの責任者から紹介され、雇うことになった。まだ20そこそこだから初々しかった。難民キャンプで栄養失調の赤ちゃんにミルクを提供したり、子ども達を病院に連れていく。JIM-NETの仕事を気にいってくれて安い給料でも辞めずにいてくれている。なぜ?と聞いたら
「自分のアイデアを取り入れてもらえるから」という。
うむ。私は、いちいち細かいことを指図するのはめんどくさいので、ほったらかしにしておいただけなのだ。

5年経つとリームは結婚して妊娠した。妊娠中でも働くというから、あまり無理はさせずに、会津の伝統玩具の赤べコの作り方を伝授して、産休中の余裕のある時は作らせた。まず、僕が会津に行って、赤べこの作り方を教えてもらった。そして、門外不出といわれている金型。赤べこは金型に和紙を張っていって乾いたら引っ剥がす張り子である。その金型をお借りしてイラクに持ち込んだ。古新聞を糊でペタペタ張っていく。でんぷんのりがイラクでは売っていないので、小麦粉を焚いて糊を作る。そういうところから教えて一緒にものを作っていく仕事は楽しいものだ。

この張り子のべコをたくさん作って、億万長者になるというビジネスプランを説明し、「できるか?」と聞いたら、「できる。できる」と答える。いつも、彼女は「できる、できる」と答える。そう、彼女の辞書に不可能はない。しかし、出来上がった張り子のべコはでこぼこ。ともかく、難民の子どもに集まってもらって、色を塗ってもらって顔を書いてもらった。100個のべコにサッカーのユニフォームをペイントした。子ども達の絵も面白くて凸凹感がいい味を出している。

赤ちゃんも無事に生まれて、すっかりお母さんとしての貫禄が出てきたリーム。間もなくその赤ちゃんと一緒に来日する。

6月9日―7月4日
中東の難民のことを知ってもらうために写真展示と難民たちが作ったサカベコ(張り子の牛にサッカーのユニフォームをペイントしたもの)を聖心グローバルプラザで展示。期間中には後半でリームが来日し、6月30日はトークイベントを行います。詳しくはこちら
https://www.jim-net.org/2018/05/09/2674/

昨年10月、彼女と話して、シリアの様子を見てきてもらうことにした。リームは、カミシリからダマスカスに向かう飛行機の席が取れず、ブローカーにお金を払ってシリア軍の輸送機に乗ることになった。300人ほどの乗客がおり、兵士が席に座っており、リームらは貨物を載せる床に座った。隣には、「イスラム国」に感化されて自爆テロを行おうとした女性が手錠をかけられて座っていた。「私は、バグダーディを知っているわ」と狂ったように笑っていたという。

ダマスカスでは公共交通機関が普通に動いてた。子どもたちが学校に行っているし、報道で見ている状況とあまりに違う町の様子に驚いた。すべてがよく見えた。しかし、混雑している道沿いには30メートルおきにチェックポイントがあった。道をゆく若い男性のほとんどは軍服を着ていた。夜になると銃声と爆撃音が聞こえた。彼女がかつて住んでいたカミシリの村人は、ほとんどがヨーロッパなどに移住してしまったようで年寄りしか残っていなかった。

無事にイラクに戻ったリームは、「シリアで暮らしていくことは、まだまだ難しい」といっていたが、カミシリ―ダマスカスを往復しイラクに戻ってこれたことの意味は大きい。

「この6年間で、一体どれだけの命が失われてしまったのか。そのことを本当に深刻に受け止める必要があると思うの。復讐したいという気持ちはわかるけど、暴力を使えば、また一人の命が失われる」同じように考えるシリア人が増えてくれるように期待したい。