2017年に、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 社会を動かすアートの新潮流」を見に行った。僕は当時イスラム国から逃げてくるシリア難民とか、イラク人の支援活動に奔走していて展覧会を見るような時間がなかったが、アート好きな友人が無理やり連れて行ってくれて 「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という言葉に出会って励まされ、すっきりした。
僕は、いわゆる人道支援に携わってきて、必然的に、お金を集めなければならなかった。時には、「お金をください」と難民に代わって、物乞いのように頭を下げなければならない。まさに、みじめさを体現して彼らによりそった。
「展示」することは、お金集めのための必然だったわけだが、説明ではなく、アートとして展示したいという気持ちを常に持っていたと思う。例えば、数時間前にイスラム国から逃げてきた子供にであうとスケッチブックを出して絵を描いてもらう。ヨーロッパを目指し船をこいでギリシャに向かった難民の子どもをドイツに追いかけて脱出の経過を描いたものは、絵巻物として展示した。
昨年、僕は団体を抜けてフリーランスになり、シリアとどうかかわるか格闘しているが、やっぱり意識して、ソーシャリー・エンゲイジド・アートのピースとして、子供たちの絵をインスタレーションしていきたいという思いが強い。ただ、アートというものは時としてよくわからない。僕がいいなあと思うものと専門家が賞賛するものが異なるし、値段のつけ方がさっぱり理解できないことが多いい。ということは、目が肥えていないということなのだろう。
美術クラブの先輩たちには、アートのコレクターになったり、美術の教科書の編纂に携わっている方もおり、レクシャーしてくれるというので聞きに行った。
「コメディアン」という先品は、ダクトテープで壁に貼られた1本の本物のバナナ。価格は12万ドル(約1300万円)だという。ますますもって価値がわからなくなってしまった。さらにオチがあって、展覧会場に現れたパフォーマンス・アーティストがバナナを食べてしまったという。「バナナ」は概念であり、作品が壊されたわけではないという。驚くべきは、作品の値段。パフォーマンスに値が付き、話題になることでネットのアクセス数があがりユーチューバーがお金を稼ぐようなイメージだろうか。
ところで僕は、友人が主宰するアマチュアのオーケストラ、「不協和音」のコンサートのチラシを年2回頼まれている。今回のプログラムはハイドンとシェーンベルク。いずれもウィーンで活躍した作曲家による。シェーンベルクは前衛的な作曲家のイメージあり、ハイドンは、何か古くて保守的なイメージだ。
「ハイドンは、その時代では前衛作曲家です。今回演奏するハイドンの交響曲54番も、和音の移り変わり、楽器の使い方、構成など、実験的なことをやっています。今度の演奏会では、そんな先鋭的なハイドンの心意気を感じるものにしたいなと思っています。というわけで、時代の違いはあれ、前衛作曲家ハイドン、シェーンベルクといった感じのテーマで絵は描けないでしょうか?」という依頼が来た。
シェーンベルクは自画像も描いている。そこで、彼らが自画像を描いてどっちが前衛的か比べているという構成にしてみた。シェーンベルクが手にするのは、自らの作品、「赤い目の自画像」ハイドンは、風船を持った自画像で、自ら絵を掲げるとシュレッターで裁断されてしまうというオチ。これはバンクシーの作品が、オークションで1億5000万円!の値がついた瞬間にシュレッターにかけられたというニュースをパロった。二人が立つのは、シリア内戦で破壊されたがれきの山。ハイドンの自画像は、まさに世界の平和を訴えるソーシャリー・エンゲージド・アートになっており、シェーンベルクが一本取られたと焦っている。
ポストカードを多めに作ってもらったので、シリア支援のイベントで配ったりしている。ただ、残念なことに、僕の作品には値段が付かず、無料奉仕なのだ。
シリアの小児がんの支援を本格的に始めようということになり、またしても金策に走らなければならないのだが、「シリア」を概念にして作品にして、アートとしてオークションに! 一体いくらで入札されるのかな? と考えているだけで楽しくなる。いや、考えているだけが楽しい。