仙台ネイティブのつぶやき(52)つながりの中で、宮城県美術館

西大立目祥子

 宮城県美術館の現地存続を求める活動で、怒涛のような2ヶ月半が過ぎた。連日、知恵を絞ったり人に会ったり電話をかけたりで、ヒートアップ気味で頭の芯が熱かった。慣れないことが続いて知らず知らずのうちに疲れがたまっていたのだろう、先週はついに具合が悪くなりダウン。まさか、今年がこんなことになるとはなあ…。
 
 でも、渦中にいて感じるのは、これまでにない運動の広がりと手応えだ。特に12月中旬に始まった署名活動では、賛同が日を追うごとに先々に浸透し広がっていくのを実感してきた。1月中旬に5000筆だった署名は、1月末には10000となり、提出日を探っているうちにあっという間に15000をこえた。
 2月19日に、総勢10名で宮城県議会に美術館の現地存続を求める陳情書と署名簿を提出したのだけれど、署名筆数は17773。年末年始をはさんだわずか2ヶ月半に集めた数としては驚異的ではないだろうか。
 陳情の場には30人もの議員さんたちが出てきてくれ、そこに10名もの与党議員がいたのにもまたびっくり。議会にとっても、移転に反対する声はもはや無視できないものになっていることを感じる。

 突然降って湧いた美術館移転案に居ても立っても居られない気持ちで署名を始めたのは、市内中心部からちょっとはずれた西公園近くで喫茶店を営むKさんという女性だ。開店35年というこの店は美術好きの人たちのたまり場で、白い壁は個展をやりたいという人に貸し出されている。この問題が報道されてから、カウンターに座るお客さん同士がコーヒーを飲みながら「ひどい話だよ、なんかやろう」「黙っていられない、署名がいいんじゃない?」と話すうち、気風のいいKさんが「もう私やる!」と決心して、おそらく自然発生的に始まったのだと思う。それは12月中旬のことだった。
 
 そのころには、私は友人たちと細々と続けていた「まち遺産ネット仙台」という会から、知事や宮城県議長あてに要望書を提出していた。さらにこの問題に関心を持つ人たちといっしょにもっとゆるやかな「アリスの庭クラブ」という会を立ち上げ、ウェブサイトを運営し、そこにKさんの署名用紙をダウンロードできるように掲載したところぐんぐんおもしろいように活動が広がっていった。
 私自身もいつもバッグに用紙を入れて持ち歩いていたのだけれど、知り合いに会って署名を頼むと、「白い用紙はないの?」と返される。1枚渡すと、その人がさらにその用紙をコピーして方々に配るという具合にして、知らない人からさらにその先へと署名用紙は増殖を重ねながら手渡されていった。

 Kさんの店のポストには連日、用紙で分厚くふくらんだ封筒がどさりと配達された。店の前に車を停めて「200人分です!」と署名を持って勢いよく飛び込んでくる女性がいるかと思うと、雨の中わざわざやってきて、おもむろにアタッシュケースから「町内の人が書いてくれました」と紙の束を取り出したあと椅子に座り、ゆっくりとコーヒーをすする男性もいる。
 あるとき、女性2人が1000筆の署名を集めて持ってきたのには驚いた。縁起をかついでくれたのか「福袋」と書かれた赤い紙バッグにぶわっとふくらんだ紙が100枚!初めてお会いする方だったけれど、美術館を話題にしばらくおしゃべりを楽しんだ。別れ際には「私たちがついてますからね!」とエールをくれた。
 カウンターでお茶を飲んでいると、隣り合わせになった見ず知らずの男性から、「活動の情勢は?」とたずねられ、しゃべっていると後ろのテーブルから話に入り込む人もいる。
 
 ここはつまり性別も年齢も関係なく、絵が好きな人と人が集い、胸襟を開いて話ができるサロンなのだ。この店がなかったら、署名活動にここまで弾みがつくことはなかったかもしれない。つくづくコーヒーハウスは文化の基盤であり、運動が生まれてくる母体であることを教えられた。考えを持ったオーナーのいる街に開かれた小さな場から、出会いが生まれ議論が起こり文化は生まれてくるのだ。

 宮城県議会への署名簿提出に同行してくれたのは、旧知の友人たちに加え、この店で知りあった方たちだ。県内最大のスケッチ会の代表のSさん。民芸の研究家のH先生。画家で登山家で何かとアドバイスをくれるH先生。伝統建築の修復や設計をしているTさん。市内中心部でスケッチ会を主宰するIさん。みんなつい3ヶ月前までは知り合うこともなかったり、顔見知りではあってもじっくり話をすることはなかった人たちである。
 私はこれまで仙台で3回、歴史的建造物の保存活動をやり、3回とも失敗している。そのとき同じ思いでつながる友人ができ、そのとき建造物の有事の際にはぱっと動けるようにと「まち遺産ネット仙台」を立ち上げた。結局、個人的な思いでつながる人と人のかかわりからしか活動は始まらないし進まない。仙台、宮城で歴史ある建物が危機に瀕しても多くは声も上がらないまま見過ごされてきたのは、こうしたつながりの弱さに起因するのかもしれない。つまりは互いに遠慮して思いを口にしたり、無理矢理にでも人をつないでいく人がいなかったということか。

 12月に私たちが要望書を提出して以来、要望書を提出する団体が増え、すでに7団体を数えるまでになった。また、12月末に県が県民からの意見を募集したパブリックコメントは1月末に締め切られたが、221通寄せられたうち移転に賛成するのはわずか5通だったという。多くの県民はあの前川國男設計の建物が現在の静かな青葉山と広瀬川のほとりにあり続けることを願っているのだ。
 この2ヶ月半の間に局面はつぎつぎと変わり、この問題では移転反対の世論が圧倒的多数になってきた。(変化し続ける局面をみながら、人に会い人と人をつなぎ、つぎにどんなアクションを起こしていくかを考えるのは実にスリリングで楽しいことなのだけれど、これについてはまた別の機会に書きたい。)

 署名を提出した翌日に開かれたこの問題を議論する宮城県の懇話会は、(新県民会館と)集約移転する方向で検討するという最終案を提出した。反対する県民への配慮として、「検討する」ということばが加わっただけで、移転という方向性に変更はなかった。この最終案を受けて、3月末に県としての最終案を示すことになっている。

 それにしても行政というのは、なぜ決めたことを見直し、よりよい方向へと変更することをしないのだろうか。まだ議会にかける前の段階である。もし、現地存続という勇気ある方向転換をしたら、署名をした17000人の県内外の人たちは大歓迎して入館者を増やすべく宮城県美術館に通い、活動にもふかくかかわって本当の意味で県民の美術館にしていくための努力は惜しまないだろうに。