雨のヨルダンでイラクを待つ男たち

さとうまき

ヨルダンの空気は、いつも心地よかった。たとえそれが真夏であって、太陽がぎらぎらと照り付けていても、今にも50℃を超えそうなバグダッドに比べたら涼しく感じるのである。20年前、イラク戦争で疲弊したバグダッドで緊急支援の任務を終えて、国境を超えヨルダン側に入った瞬間のひんやりとした空気に触れると、まさに地獄から生還した気分になり、精神的にも安堵したことを思い出す。冬は、中東のイメージに反して、凍てつくような寒さで、時には雪が積もる。しかし、雨が降ると、砂漠には草草が芽吹き始めて、生命の躍動を感じる。枯れ葉だけの日本の冬のような寂しさはないのだ。

ダウンタウンの安ホテルは、僕にとっては快適だった。エルサレムや、ダマスカスといった城壁の中に小ぎれいに収まった旧市街に比べれば、ずいぶんと見劣りはするものの砂漠を旅する旅人たちの中継点に違いなかった。香辛料と羊のにおいが漂う薄汚いこの町は活気にあふれている。オスマン帝国の時代から、大英帝国の統治下でもこの活気は変わらなかっただろう。労働者が利用するような大衆食堂もいくつかあり、羊肉をトマトで煮込んだ定食を頼む。久しぶりに現地で食するせいなのか、羊がうまい。

ヨルダンを拠点として活躍している画家のハーニー・ダッラ・アリーさんがイラク行きのチケットを手配してくれるというのでカフェで待ち合わせる。ハーニーさんは、イラク人の原風景ともいえるナツメヤシの木をモチーフにした絵を描いていた。ナツメヤシの葉をすきこんだ紙にイラクの人々を描きこむ。最近はカナダに移住したと聞いていた。「カナダ? 暮らしやすくても、そこは私の街ではない。つまり、私はアラブ人だったってわけさ!」

バグダッドに行くかバスラに行くか迷っていた。バスラにはかつて支援していた小児がんの子どもたちがいて、今どうしているんだろうというのが気になっていたのだ。しかし、今やもう援助業界からは足を洗っていたので、後々めんどくさいことになると嫌なので今回は時間もなかったからバグダッドだけにしようとも考えた。ただ、やはり、そうイラクに行くチャンスもないだろうと思い、行けるときには無理しても行くべきだと決心した。ハーニ―さんは、その場で携帯電話でイラク行きのチケットを手配してくれた。

翌日は、朝から雨が降っていた。イスタンブールのNGOの事務所を訪ねてお金を渡すはずだったが、タクシーでぼられたりしているうちに時間が無くなり、結局ヨルダンから送金しなくてはならなくなったが、ここからだと、市中の両替屋で簡単に送金ができる。

一方、シリアからも、しつこくお金を送金してくれというメッセージが入ってくる。地震の被害者ではなく、南部のダラアというところに白血病の女の子がいるという。病院に行くお金がないという話だ。間に入っているイブラヒムという男が、果たして信用できるのかどうか。お金を送っても受け取ったという返事はすぐにはよこさず、お金が必要な時だけしつこく連絡してくる。まあ、イブラヒムが信用できる人間だということを信じてお金を送金するしかなく、あっという間に資金が厳しくなってしまった。おまけに円安と、ウクライナ危機で飛行機の燃料代も上がってしまっていて、ヨルダンからイラクまでのチケットが500ドルを超えてしまった。それでも、あと数時間後には、僕がバスラにいることを想像すると小躍りせずにはおれなかった。

アンマンの安ホテル。僕の部屋は3階だったが、エレベータもなく、階段を重たいスーツケースを持ち上げて登らなくてはならない。部屋は、排水溝から漂っているどぶ臭いにおいもするが、それでも居心地はよかった。ホテルのフロントには、ハンチングをかぶった老人がシフトで入っている。かつて中東がソ連の影響を受けていた時代の雰囲気、つまり、日本でいえば昭和時代のいでたち。今でも使っているのかどうか怪しいが、部屋につなぐ電話回線のボードの前に座っている。僕が日本から持ってきたドリップコーヒーを飲むためにお湯を沸かしてもらう。物珍しそうに、「それは何かね?」と聞いてくる。「コーヒーですよ」袋を開けてコーヒーカップにセットしてお湯を注ぐ。老人は、「便利なコーヒーですなあ」と感心している。

夜も更けたころ、頼んでおいたタクシーが到着する。さあ、僕はバスラを目指す。シンドバッドの冒険の始まりだ。

イラク戦争から20年「メソポタミアの未来」展を開催
7月26日ー8月28日 11時~19時
赤羽「青猫書房」
ハーニ―・ダッラ・アリーさんの作品も展示中
https://aoneko0706-0828.peatix.com/