『アフリカ』を続けて(26)

下窪俊哉

 これを書いている7月末の時点では、まだ『アフリカ』次号の”セッション”は動き出していない。暑くてそれどころではないというわけではないが、そうかもしれないという気がしてくる猛暑のなか、切り絵(表紙)の相談をしたり、書く人に手紙やメールを書いて出したり、なかなか出せなかったりしている。
『アフリカ』のような雑誌は年1冊というのでは動きが鈍いというか、それではつくっている私の腰が重くなるので、年2冊くらいのペースに戻してゆきたいと少し前に書いたり話したりしていた。始めた頃はそのくらいのペースでつくっていたのだ。『水牛通信』について平野甲賀さんが「気軽にやるのが一番。出たとこ勝負でチャラッと作るのが長続きのコツ」(「平野甲賀の仕事1964-2013展」図録より)と書いていたのも印象深く覚えている。そうするにはあまり間を空けず、次から次へとつくってゆく方がよい。
 そう考えると、最新号が2023年3月号なので、ペース配分を考えると、次は9月頃である。もう、すぐではないか?
 だからと言って、焦るような気持ちにはなれない。声をかけたり、あるいは声もかけずに(思い浮かぶ人の全員に声をかけると大変なことになる)、原稿が来るのを待っているだけである。
 来るのは原稿だけではないかもしれない。予測のできない新しい何かが、やって来るかもしれないのだから。
 前にも書いたかもしれないけれど、『アフリカ』は特集テーマのようなものを掲げて原稿を集めることをしない。そういうやり方をすれば編集は楽かもしれないが、やりたくないからしない。結果的に特集号のようになった号が2、3冊あったけれど、それはあくまでも例外であって、普段はしない。待っているだけと言っても、自分にも毎日の執筆があるのだから、手持ち無沙汰になることもない(むしろ忙しい)。

 半年ほど前にここで『思想』3月号の「雑誌・文化・運動」について書いた際、冨山一郎さんのエッセイ「雑誌の「雑性」」に触れた。その時はパンデミックを機に大学で「通信というもの」を始めた冨山さん自身の実践に注目して書いたのだが、その文章の主題は雑誌の「雑」についての考察だ。少し引用してみよう。

 思想の科学研究会が様々なサークルについて『共同研究 集団』(一九七六年)を刊行した時、その序論で鶴見俊輔は集団について考えることを、「煙の道をなぞる」、あるいは「煙そのものの内部の感覚」と記している。鶴見が、文字通り煙にまいたようないい方で示そうとしているのは、テーマや主張といった言葉においてはつかまえることのできない集団や方向性が、想定されているのではないだろうか。

 それを受けて、雑誌を読むことは「自らの意図において方向づけられた」ものではなく「偶発的な出会い」であると続け、「雑誌は、一人ひとりが契機となった連鎖を媒介しているのであり、読み書き話すというひとつながりの言葉の行為の中にある」と冨山さんは書いている。
 多様な文章のあることが重要なのではなく、各々が「契機」となることが重要であり、書いたり、読んだり、話したりするなかに雑誌は浮かび上がるのだ、そう考えると、私は何だか嬉しくなる。
 雑誌をつくる者としては、でも、それって、具体的にどうするの? と思わなくもない。私は雑誌を研究しているのではない、個人的な雑誌という運動体に仕えている最中なのだから。
 いま、たまたま縁あって、『アフリカ』という場に辿り着いている(と感じている)人たちが書いている。どんなものが出てくるだろうか、私という編集人は待っている。
 次号がどんな内容になるのか、前もって私は殆どわからない。少しわかっているのは、自分が目下書いている原稿のことだけだ(しかしそれが載るかどうかはまだ決まっていない)。この状態では、まだ雑誌は浮かび上がってきていない。原稿が送られてきて、それをまず私は読む。その「読む」という行為のなかに、あるとき、ふと新しい『アフリカ』が浮かび上がってくるのを待っている。
 待つと言っても、そこにはいろんな「待つ」があるということか。
 そうやって『アフリカ』はどうなるかサッパリわからない、よって『アフリカ』自身が抱えているテーマや主張といったものは何もない、ということになるのかというと、いや、どうだろうか。そうでもないはずだと感じる。

 2006年の秋、『アフリカ』を始めた直後に仕事で近畿地方各地を巡っていて綾部を訪ねた際に、綾部市役所の職員からある人を紹介された。塩見直紀さんといって、「半農半X」という暮らし方を提唱しているのだという話を聞かせてもらった。翻訳家・星川淳さんの「半農半著」ということばに影響を受けて(それは星川さんが仕事の半分を農業とし、残り半分を著=執筆として暮らしている話から来ている)、自分にとって「著」の部分には何が当てはまるだろうかと考えたがスパッと思いつくものがない、なのであえてそこを明確にせず括弧に入れて(「X」にして)探りつつ新しい暮らしを始めたという話だった。
 その後、塩見さんから定期的にメール・マガジンが届くようになった。その中には、面白い提案がたくさんあった。すぐに思い出せるのは、「自分オリジナルの肩書きを考えてみよう」とか、年末には「今年の極私的・十大ニュースを書き出してみよう」とか。そのときに書き出してみた数十にも及ぶ肩書きのなかに「道草家」があった。書き記したときにはふざけていたのだが、数年後にはそれが自分の愛称になって、思いもしなかった縁を呼んだり、結婚相手を連れてきたりしたので人生何がどうなるかわからない。「十大ニュース」は毎年、幾つかのトピックスはすぐに出せるが、必ず十項目を出さねばならない。その頃にも印象深い出来事の多かった年と、少なかった年があった。そのことが自分に何を教えようとしているのか、と探ったりもした。

 ここでなぜそんなことを思い出して書いたのかというと、『アフリカ』はその「X」を抱えているのではないか、と急に思いついたからだ。それは一体何だろう、とりあえず括弧に入れられて、未だ姿を隠している。そう考えてみたらどうだろう。