サッカー事情

さとうまき

僕は、ワールドカップには嫌な思い出があってしばらくはサッカーファンをやめていた。それは、日韓大会のとき。2002年と言えば、パレスチナはイスラエル軍の侵攻が始まり、ジェニンの難民キャンプでは、テロの巣窟だと言って、激しく破壊されていた。私の部下がその時、テルアビブの飛行場でイスラエルに入国を拒否され、拘置所の様な所に入れられたという情報が入ってきた。なのに東京の同僚たちは仕事中なのに、ラジオを持ち込んで大騒ぎしている。「なんなんだ?」という怒りが込み上げてきた。

それでも、イラクの仕事を始めてから、サッカーのすごさを感じた。2007年、アジアカップだ。イラクでは、宗派対立が激化し、内戦状態になっていた。そんな状態でも、スンナ派、シーア派、キリスト教徒、クルド人からなるナショナルチームは優勝した。もう言葉にならない感動だ。一体なん人の血が流れたか。スポーツ選手も誘拐されたり、殺された。優勝は、本当に、イラク人みんなが心の底から喜んだのだ。

その時からだろう。イラク人たちは、自ら戦いをやめ和解の道を模索し始めた。治安はその後、急速によくなっていった。もちろん、それだけではないとは思うが、もしかしたらサッカーはそれだけの力があるのかもしれない。

2014年、ブラジル大会、アジア最終予選まで残ったイラクだった。僕は、ぜひイラクに出てほしいと思い応援してきた。しかし、イラクサッカー協会は、マネージメント能力がない。前回の南アフリカ大会の予選では、サッカー協会が内紛でごたごたしてしまい、FIFAは、イラクの国際大会への出場停止を決めてしまう。今回もジーコがせっかく監督になっていたのに、サッカー協会が給料を支払わないとかで、ジーコはやめてしまった。それよりも何よりも、イラクには、ホームがない。治安を理由に国際試合が国内でできない。それで、今回も、代わりにカタールのドーハがホームの代わりになった。

せっかくなので、バグダッドで仕事していた井下医師と僕は、日本に帰る途中で6月11日の、イラクVS日本戦を応援しに行くことにした。ローカルスタッフのイブラヒムは、サッカーが大好きなので、一緒に連れて行ってあげることにした。彼は張り切って、イラクのユニホームを買ってきてくれた。しかし、問題は、カタールはイラク人にビザを出さないという。これはかわいそうだ。ほとんどのイラク人は応援に行けないというのだ。

イブラヒムの分まで、応援するぞと意気込んで、カタールに到着する。バグダッドからドーハに飛ぶ飛行機は砂嵐のために遅れたが何とかゲームには間に合った。サッカースタジアムに到着すると、日本からの応援団がサムライブルーのユニホームを着て楽しそうだ。イブラヒムがくれたイラクのユニホームを着た僕らは、居心地が悪い。

スタジアムはガラガラでなんと日本のサポーターの方が多いのである。入場の時に子どもたちと選手が手をつないで登場する。子どもたちも全員が日本人。イラクのユニホームは、Awayの緑のものを着用しているのだ。これじゃあ、日本が圧倒的に有利である。結果は、イラクは0-1で敗れた。キャプテンのユーニス・マフムードはこの試合で引退を決めた。ちょっとここの所、イラクは負け続けてしまったので、応援している僕はどうも不機嫌になりがちだったが間近で選手たちを見てまた応援しようという気になる。

日本の選手たちは、すぐにブラジルへ飛んで行った。今度は、あれだけ強かった日本だが、ブラジルでは一勝もできなかった。世界の壁はあつい。スタジアムの外では、連日ワールドカップに反対する人たちのデモ。スタジアムを作る金があるなら福祉対策、貧困対策に仕えというのだ! あのサッカー大国のブラジルがワールドカップに反対するなんて。

そして6月末からトルコで始まった20歳以下のワールドカップ。こちらはイラクの若者たちが快進撃で、予選をトップで通過した。この若者たちは、一体内戦の時代をどう生きて成長したのだろう。僕たちが、戦争中であった子どもたちが、同じ年頃。たとえば19になるムスタファ君は米軍のヘリから発射された弾丸で足を撃たれた。彼の夢は、「サッカー選手になること」。彼に会うといつも、「サッカーができないのが悔しい」と言っていた。戦争がなかったら選手になっていたかもしれない。

そのトルコでは、オリンピックに反対する人たちのデモ。日本はどうだろう。東京オリンピックでみんな幸せになれるのかな? 弱いものにやさしいスポーツたれ。