海を渡るパレスチナ人

さとうまき

難民が、海を越えてヨーロッパを目指している。
8月の終わりには、オーストリアで、ハンガリーとの国境につながる高速道路に止まっていた保冷車の中から、71名の遺体が発見された。密入国しようとしたシリア難民たちだそうだ。9月になると、3歳の男の子がトルコの海岸で溺死し打ち上げられていた。クルド系シリア難民でトルコからギリシャに渡る途中でボートが沈没した。この危険な脱出で、この一年で3000人近くの難民が命を落としている。

「ハロー、ハロー」9月9日、イラクのアルビルにつくとローカルスタッフのアブサイードがバグダッドからやってきて出迎えてくれた。相変わらず、甲高い声で豪快に笑っている。アブサイードは、60半ばで、顔はしわくちゃだ。生まれたときからパレスチナ難民だった。

イラクのパレスチナ難民は、バグダッドを中心にかつては3万人を超えていたが、サダム政権が崩壊すると迫害の対象となり、危険を逃れて各地へと去った。しかし、取り残された難民は、新たな紛争のたびに一番の犠牲者になっている。

今回は、息子をつれてアルビルにやってきた。娘婿が、先にアルビル入りしてトルコ行きのビザを手にしたという。トルコからヨーロッパに脱出するというのだ。息子のアハマドも同行する予定だったが、アハマッドは、まだ幼く頼りない。あまりにも危険な旅に思いとどまり、バグダッドに戻ることにしたという。

アブサイードによれば、パレスチナ難民への支援は、ほとんどなくなってしまったそうだ。
「パレスチナ難民には、未来がない。アハマッドにどんな未来があるっていうんだい? 出ていくなら今がチャンスだ。でも、こいつは、怖くなったんだ」

昨年、「イスラム国」の迫害から逃れてアルビルの郊外のバハルカにあった工場の敷地が難民キャンプになっており、約4000人が暮らすこのキャンプには22家族のパレスチナ人がいるという。アブサイードの知り合いもいるというので翌日見に行った。
9月だというのに、まだ太陽はぎらぎらと照り付ける。難民キャンプ内にも格差があるようだ。仮設住宅のようなキャラバンにすんでいる難民もいれば、粗野なテントにすむ難民もいる。

タハさん(47歳)は、モスルでくらしていた。昨年の6月3日に、モスルが陥落した。「イスラム国」の兵士たちがやってきて、彼らと一緒に戦うことを求めてきた。お金も払ってくれるという。二つ返事で時間を稼ぎ、脱出の機会をうかがっていたタハさんは、6月12日に、タクシー一台に9人家族が乗り込み、クルド自治区の手前のハーゼル難民キャンプまでたどり着いた。その後、ハーゼルキャンプの間近まで「イスラム国」が迫ってきたために、クルド軍の戦車が配備され、8月12日にバハルカキャンプに送られた。

彼の母と弟がまだモスルにいる。弟は、保健省の役人としてクリニックで働いている。こちらから連絡するのは危険なので、向こうからの連絡を待っている。2週間に一回ほど電話がかかってくるという。クリニックには、薬がなく、そこで働く人たちも給料が払われていない。逃げるのは危険だからとどまるしかない。
「泥棒をした人は、公衆の面前で手首を切られる。市場にいると、ISの兵士が、周辺を封鎖して広場に集まるように命令する。そこで処刑が行われる。それを見なければいけないんだ。2日前に電話で話した時は、イラク軍の空爆で変電所や給水施設が爆撃されたので、停電が続いているといっていた。」

その時少年がパレスチナの国旗のついたマフラーを巻いてやってきた。8歳のアワル君、ビデオの前で訴えたいという。

「僕はパレスチナ人です。ルトバでうまれました。ファルージャにいきました。ラマディにいきました。そしてスレイマニアに行きました。そのせいで僕は学校にいけません。僕は読み書きもできるし、すべてのことが理解できます。でも落第しなければならないのです。一年が無駄になりました。
国連の事務総長にお願いしたい。いつかきっと僕をイラクの外に出してください。僕は、みんなと同じように、自分の家の前にすわり、みんなと同じように、学校にいって、学校には子どもたちがたくさんいて、僕も一緒にその子たちと遊びたい。日本のみなさん。僕たちを助けてほしいのです。」

隣で通訳をしていたアブサイードは、少年のまっすぐな言葉に、泣き崩れてしまった。かつては、フェダィーン兵士としてパレスチナ解放のために銃を手にしたこともあったアブサイードであるが、いまだにパレスチナは、解放されるどころか、国際社会からのつまはじきに会っている。かつて自分たちを迎えてくれたイラクやシリア、ヨルダンには行き場がなく、WFPも食糧支援を削りだした。のたれ死ぬか、最後の賭けでヨーロッパに向かうかだ。あまりにもみじめなパレスチナ難民の運命、子どもたちの未来に責任を感じて涙したのだろうか?

数日後、アブサイードの娘婿は、無事に船でギリシャまでたどり着いたという。さらに数日後、電話すると、今はウクライナにいるという。え? ウクライナ? いや、ちがった、スロバキアだったかな。
本人もよくわからないらしい。まだ旅はつづく。