親不知

さとうまき

イラクへの出張を前に、歯が痛み出した。実は、随分前から、右下の親不知が痛い。レントゲンを見れば、真横に生えているのだ。左下も同じようになっていて、20年くらい前に抜いてしまった。そのときが大変だった。骨の中に真横に埋まっている歯を三つに砕いて、引っ張り出したのだ。一週間は、物が食えなかった。それだけではない。一年後にまた同じところが痛み出し、骨を削らなくてはならなかった。そんな思いがあるので、ほったらかしにしておいた。

主治医の先生は、どうも抜きたいらしいが、ずーっとまったをかけて来たのだ。しかし、ますます痛み出してきたのでやむなく歯医者にいった。イラクで痛くなったらと思うとぞーっとするからだ。

イスラム教徒にとって、歯は白くなくてはいけない。なんでも、預言者ムハンマッドは、歯磨きをよくし、歯を清潔にすることが、神に帰依することであると考えていたとか。彼の時代の歯磨きはというと、ミスワクという木の根っこである。これをかめばブラシのようにほぐれてくる。それでゴシゴシと磨く。ミスワクの樹液には殺菌作用もあるそうだ。今でも、イスラム教徒は、このミスワクという根っこを使ってゴシゴシやっているので、歯が真っ白だ。というわけで、歯を磨くことは、虫歯予防だけでなく、信心深いことを表している。白い歯はまさに、イスラム教徒の紳士のたしなみでもある。

僕は、前歯が差し歯になっているので、あまり白くない。アラブ諸国へ行くと注意されることがよくある。この間は、モスクの前で、注意された。そして怪しげな親父が、歯のサンプルを取り出し、「今すぐ真っ白いのに取り替えますよ」というのだ。モスクにおまいりに来る敬虔なイスラム教徒を捕まえては、入れ歯を勧めている。歯が白くなるのはいいが、抜いたりするのはいやなので、丁寧にお断りした。

そんなことを思い出しながら、歯医者にいった。とりあえず、右上の親知らずが、下に埋もれた親不知をかみ合わせているために炎症を起こしているので、まず、上を一本抜くことになった。痛い、ペンチで引っ張られているのだろうが、めりめりという音がする。走馬灯のように、映像がよぎる。子どもの頃、前歯が永久歯に生え変わるときに、歯医者で抜いてもらったこと。あの駅前の歯医者はいつも混んでいた。アアーあの歯医者のにおい……。抜いた歯を屋根に向かって投げたら、強い歯が生えてくるという言い伝え。飼っていた愛猫の歯を抜いてやったこと。猫も、歯が生え変わるのだ。

そして、イラクでは、拷問するときに、麻酔もなしに、歯を抜いたりするのだろう……いや、サダムのイラクより、アメリカの拷問のほうが強烈だ。アブグレーブをみよ。そういう脈絡のない映像が次から次にと脳裏をよぎり、気がつくと、歯はなんとか無事に抜かれていた。