銃を鐘に

さとうまき

秋田の熊谷恭孝さんから、武器を溶かして鐘を作りたいという相談があった。熊谷さんは高校でハンドベル部を指揮し、バグダッドの音楽学校の生徒が書いた詩を曲にしてチャリティコンサートなどしてくださっている。70年前の戦争で、お寺の鐘が集められ武器に変えられた。そのようなことがあってはならないという願いをこめたいという。

「イラクからも武器を集めてほしい」
イラクに行くと、武器がほしいといわれる。
「イスラム国と闘っているのに、ろくな武器がない」というのだ。
そのような状態なのに、武器で鐘を作りたいといっても相手にされないだろう。

一方「イスラム国」から武器を取り上げて、鐘を作ってしまうのはいい考えだと思う。
「すいません。「イスラム国」のお方、あのー、だめもとでお願いがあってまいりました。その武器を私に下さいませんかね。それで、鐘を作りたいのですが」
「なんだ、こいつ、ふざけたやつだ。捕まえて八つ裂きにしろ!」
という風になってしまう。
「熊谷さん、無理ですよ。」
といってお断りをした。

数カ月たち、「鐘ができましたよ。70年前の弾丸などを寄付してくれた人がいて、2つの鐘を作りました」一つは、秋田空襲の記念館に寄贈し、もう一つはバグダッドの音楽学校に寄贈したいという。国際宅急便が、イラクに送ることを渋っているので、僕が手持ちで運ぶことになった。

アルビルにつくと、アメリカ人の友人から電話が入り、これから、キリスト教徒の部隊と打ち合わせがあるから来いという。一緒についていくと、そこは、アッシリア人の部隊の事務所だった。

昨年の夏に、アッシリア人の村も、イスラム国に制圧されてしまい、これ以上「イスラム国」が攻めてこないように、前線でたたかっているという。ところが、話を聞くと、クルドの政府軍に組み込まれているようでもそうではなくて、資金援助がないのだという。アメリカからの武器支援もない。70人でたたかっているのだという。当初は、欧米からの義勇兵もやってきたそうだが、クルド政府が禁止したという。

年老いた革命戦士といういでたちのキャプテンは、初老の小柄な男だった。今まで戦場で出会ったいかつい海兵隊員とは異なり、風が吹けば飛ばされそうだった。酒とタバコのせいでつぶれたんだろうと思わせるようなしわがれた声で、雄弁に訴える。
「水がない、服がない、食べ物もないのだ。いろんな団体にお願いしても、軍隊には支援ができないというんだ」
と嘆いている。
「避難したキリスト教徒たちは、自分たちのことしか考えていない。チャンスがあればヨーロッパに行こうとする。故郷を守ろうとしている私たちには知らんふりだ」

アメリカの友人は、武器の支援をするわけはないが、クルド政府軍との間に入り、アメリカからの支援物資がちゃんと彼らにもわたるようにするのだという。
「対イスラム国」有志連合でロシアが空爆を開始、フランスもミラージュ戦闘機を繰り出し、アメリカはドローンでジハーディ・ジョンのピンポイント攻撃に成功したといっている一方で、地上では、こういう人隊が戦っている。
キャプテンは、この間まではジャーナリストをやっていたという。携帯電話には、8歳の息子と一緒に写した写真。明日から、前線に行くとしばらく帰ってこないので、息子が一緒に写真を撮りたいとせがんできたという。

鐘のことを思い出した。そんな彼らに武器をくれとはいえるわけがないが、なんとなく、撃ち終えた後の薬きょうをもらえるか聞いてみた。撃ち終えた後の薬きょうならこっちで溶かして真鍮の塊にしてしまえばもはや武器ではないから日本に持ち帰ることもできる。ただ、なかなか話が通じない。

そしたら、キャプテンはカラシュニコフを持ってきて装着していた弾丸を一発マガジンから取り外し、これがほしいのかと聞く。弾一発は、1ドルで、町の店に行けば誰でも買えるそうだ。そして話は、武器支援に戻った。マガジンが足らない。30-50はないと、「イスラム国」とはたたかえないのだ。

彼らが、武器支援など求めなくてもいい社会が一体いつになったら訪れるのだろう。間もなく日が暮れそうになったころ、軍用車が迎えに来て、キャプテンたちのグループは前線に向かう準備を始めた。