時のしなり

高橋悠治

棒の片側に力がかかり ゆるやかな曲線になると「しなう」 弱いが 折れないで 反り返って耐える 反る力のほうが強いと跳ね返る 耐えきれないと弱さを見せて「たわむ」

弱さには陰がある 複雑にまじりあった色が乱れて変わる 強さは純粋だが その力は信頼と従属をあてにしている 状況が変わると 追いつけずに折れることがある 弱さはその翳りがしなって かぼそいまま かえって長く跡を引く まじりあっているものを切り離して それぞれの作用をつきとめるのは意味がない 一つ一つでなく まざるから はたらきが生まれるのかもしれない

「先へ先へと行くばかり」の芭蕉の連句では 一句が前後と蓮の糸でつながっている 順序があり 順番かまわずならべることができる断片の集まりにはならない

時の矢は「今」という時間には止まっている 瞬間は流れない 瞬間の印象が弱まっていけば 次の瞬間が取って代わる ゆっくり褪せていく印象が 折り重なると 静止画の連続が動画になるように 変化しているように見えるのか

音をつくる身体のうごきがまとまって短いフレーズとなって聞こえる うごきつづけるメロディーのなかで フレーズがもどってくるたびに 時間がめぐるように思われる 一つの音に立ち止まれば重心が見えるような気がするが すこしずつかたちを変えるように聞こえれば 中心のイメージは薄れて 変化の面が表立つ

先へ行くために まずちょっともどる 新しい線のはじまりには 反対方向に向けて筆を下ろす そこにエネルギーの「貯め」ができる 閉じた循環システムでは うごく勢いがなくなったとき エネルギーを引き出すためにもどる場所は いつもおなじでなくていい 先へ行く動きはここで めぐる動きに変わる これが時のしなり 曲り角 道行に区切りをつける道しるべ

時の矢は めぐる時の一部分を見た場合なのか 矢と循環は地球の自転と公転のように二重の運動なのか めぐる時はたくさんの時の矢をいれた矢筒なのか 時間が 時計とちがって どこかにあって世界を計っているわけもなく ひとそれぞれに見えない音の変化を追う尺度のひとつなら どれもたとえにすぎないかもしれないが ちがうたとえからちがう窓がひらくとも言える