コアラの国へ

さとうまき

夏の終わりに急遽オーストラリアに行くことになった。何でオーストラリアにいくかというと、実は、心臓病のイラクの女の子、ヌーランが、難民としてオーストラリアに移住したという。そしてまもなく手術をするので、様子を見に行くことになったのだ。オーストラリアは移民や難民に優しい国といわれているようで、年間1万人を越える難民を受け入れている。イラクからも、今年になってから、豪軍に協力したイラク人600人をすでに受け入れているという。アメリカも米軍に協力したイラク人は優先的にアメリカへ移住できるようだから、軍に協力するのは、悪くはないということになるのだろうか?

ヌーランの一家は、軍とは関係がなく、オーストラリアへ移住するのは簡単ではなかった。最終的には豪政府との間で、場合によってはわれわれが治療費を払うという念書を交わすことで、受け入れられたのだ。したがって手術代を払わなければいけないかもしれないのだ。

オーストラリア滞在はわずか3日しかない。朝、シドニーにつく。夏の終わりということは、南半球では、春。街角には、ユーカリの街路樹が植えられ、真っ赤な花をつけている。コアラがぶらさがっているのかと探してみるがいない。ユーカリは中東でもたくさん生えているのになぜコアラは、オーストラリアにしかいないのだろう。

私たちは、小児科医と面談し治療計画を相談することになった。医者が、手術の内容を説明してくれる。
「それで、先生、お金のほうはどれくらい払うのでしょう?」
「お金は政府が負担します」
ときっぱりといわれた。

ほっとした私たちは、早速町に繰り出し、アラブ人街を探索することになった。タクシーにのると、アラブ人かアフガン人、インド人もいる。なんだか、クウェートにも似ている。連なるアラブレストラン、金融、食料品店。ヨルダン製のジュースも売っている。

ヌーランは、小学校に通いはじめていた。クラスには、アラブの子どものたくさんいる。片言の英語を得意げに繰り返す。お父さんは、あまり英語が得意ではなく、ヨルダンにいた半年前とほとんど上達していない。それに比べるとお母さんはよくしゃべるようになった。
「何でもやらなければいけないから。医者との交渉や、このコを学校に連れて行って、先生に病気のこととか説明しなくてはいけないから」
母は強しだ。

最終日、私たちは、シドニーから、メルボルンに飛んだ。2年前に、難民として、ヨルダンから移り住んだイラク難民の家族を訪問することになった。オーストラリアに行くんだけどとメールしたらぜひ会いに来いという。しかし残念ながら、メルボルンにいるという。シドニーからメルボルンは、飛行機で一時間30分はかかるのだ。しかも母親は妊娠中だ。赤ちゃんが見られるといいねといっていたのだが、飛行場から電話すると、お母さんが死にそうな声で出てきた。どうも、生まれたらしい。
「病院にいったほうがいい? え? 家に来い?」
要領を得ず、とりあえず家まで行くことにした。タクシーに住所をいうと迷わず家まで連れて行ってくれた。

家には、子どもがいた。アリとハッスーン。ヨチヨチ歩きを始めたばかりのハッスーンが大きくなっている。俺を覚えているのかよくわからないが、一緒に遊ぼうと英語で話しかけてくる。しばらくするとランダが帰ってきた。英語でぎっしりと書き埋められたノート。コアラの絵がかかれていたり、蛇の絵が点描で描かれている。「アボリジニの描き方を教わったの」という。コアラがいるの?
「ここにはいないわ。動物園にしかいない」

しばらくしたら、お父さんが病院から帰ってきた。
「昨日から入院して、今朝、生まれたんだ。結構難産だった。ようやく出血が止まった」
お父さんは、オーストラリアにきて2年目になる。職業訓練学校に行き、自動車のメカニックをしている。そのおかげで安い車を買って修理して乗っている。
「英語は、あんまりうまくないけど、妻はもう英語べらべらしゃべっているよ」
私たちは、日が傾き始めたころ、病院へ赤ちゃんを見に行くことにした。

お父さんはサダム政権のときは、スポーツ選手だった。オリンピック委員会を率いていたウダイ・フセインの横暴さに嫌気が指して、ヨルダンに逃げてきていた。しかし、イラクから警察が追っかけてくるという恐怖心から家を変え、携帯電話を変え、キリスト教の教会へいったり、モスクにいき、施しを受け、何とか生きつないだ。坂の中腹の壊れかけた家で暮らし、貧困にあえぎほとんど鬱状態が続いていた父親だが、オーストラリアの生活には本当に満足しているようだった。
「もう、僕たちのことは大丈夫だよ」と胸を張って見せた。

ランダも、アリもハッスーンも、初めて弟を見に行くので少し興奮気味。ベッドに横たわるお母さんも、だいぶ元気になったようで、再会を喜んでくれた。そして、横には生まれたばかりのアハマッド君がスースーと寝ていた。
「この子は、イラクで生まれて、この子は、ヨルダンで生まれた。そしてこの子はオーストラリア」
お母さんが紹介してくれる。

僕たちは飛行機の時間を気にし、別れを告げなければならなかった。待たせておいたタクシーに乗り込んで飛行場へと向かった。今回のオーストラリア滞在は、コアラもカンガルーも見ることができなかったが、イラク難民が元気に暮らしている姿。そして新しい命に出会えたことは、まさに筆舌に尽くし難しというかんじだ。