足を失っても、希望は失わない

さとうまき

ムスタファのこと
僕たちは、シリアで戦争に巻き込まれた人たちの支援をしている。ヨルダンで義足を作ったり、リハビリのサービスの提供だ。同僚が障害者の問題の専門家なので、いろいろ教えてもらっている。障害者の権利条約というのがあるが、こういうのを、暗記するぐらいでないと、障害者のことを理解していないと叱られそうだ。

2年前、シリアのダラーという町でロケット弾が飛んできて右腕と右足を切断したムスタファ、12歳。ヨルダンまで緊急搬送され、ぐちゃぐちゃになった手足を切断した。手術が終わると同じようにけがをしたシリア人たちが寝泊まりしているアパートで寝泊まりしていたのだ。ムスタファは強い子だ。障害者になったのに、明るい。

「どうして君はそんなに強いんだい?」と聞いた。
「手足がないのは当たり前。みんなと同じさ」という。
なるほど。革命という名のもとに、戦いがはじまり、多くのシリア人が手足を失った。何か、手足をうしなっていないと革命の仲間に入れてもらえないような感覚だろうか。

私がその時心配していたのが、ここの宿泊施設を出て、家を借りてヨルダン人のなかで住み始めたらどうなんだろう。革命なんてヨルダン人には到底魅力のないものだろう。へたすると迷惑なシリア人として差別されるかもしれない。

2年半が経った。体が成長している。切断した後の骨が伸びてくるので、何度も手術して削った。この間、ムスタファの家を訪問した。近所のヨルダン人の子どもたちと義足を付けてサッカーをやって遊んでいた。ムスタファは、体もでかくなりまるでガキ大将のようだった。いいぞ!

アヤのこと
アヤは、イラク人だ。5歳の時にがんになりヨルダンのキングフセインセンターで治療を受けるが、左足を付け根の部分から切断しなくてはいけなかった。義足がすぐ壊れるので、何度か作りなおしてあげた。

そのアヤが、17歳になっていた。イラクのTVにゲストで出たり、皆の前でスピーチをしているという話を聞き、アヤに再会したくなった。バグダッドからアルビルまで来てもらいスピーチをしてもらった。

「皆さんこんにちは、私はアヤ・アルカイスイです。高校2年生です。私の病気について、どうやって乗り越えたかを皆さんに話すつもりです。

 2003年にももに痛みを感じた。当時の医者の間違えで私の病気はひどくなりました。イラクからアンマンに行って、ヨルダンの病院に通って、もう遅いからと足の一部を切断された。体にまだガンの細部あると言われたから化学療法を始めましたが、とてもショックでした。前の生活と完全に変わりました。体の一部をなくすのはとてもショックです。

 麻酔がきれたら足がない。大泣きした。私の叫びは病院にいる人、みなに聞こえた。

 切断の後に杖や車椅子を使うことが嫌でした。杖や車椅子を使うと私は皆と違うと感じた。当時小学生でした。

しばらくしてから、義足を付けた。最初はとてもつらかった。義足とスカーフの人生を始めた。化学療法で髪の毛はすべて抜けた。学校の友達は、アヤどうしたの?なぜそういう歩き方するの?と聞くけれど、小さいから答えることができなかった。

中学校に入ったら他人の質問や目線に傷つくようになりました。私は悩み始めた。どこに行っても、周りの人は私に可哀そう、まだ若いなのに、あなたのために神さまに祈る等、私に言っています。自分は普通と思っていますが社会と障害者の間に誤解があると思います。

高校に入ったら私はあきらめたのです。イラク社会では障害者文化がありません。中東の社会は障害を持ってスカーフを被っている女子が表に出ることは受けいれられない社会です。障害者たちは社会の一部とわかって欲しいです。普通の人と同じ権利を持ってることはわかって欲しいです。

私より私の家族がもっとショックを受けました。家族は、私が表に出ることに対して反対でした。しかし、私は他の障害者に自信を持つてもらうために、私を見習ってほしいと思い一歩踏み出したのです。私は足を失くしたのですが、私の人生で生きる権利を失くしてはいないです。」

シリア、イラク環境は最悪なのに、子どもたちが成長している。それは希望だ。