ハロー、グッバイ。サブリーンの思い出

さとうまき

10月16日は、イラクのある少女の命日だった。

サブリーン・ハフェドが亡くなってちょうど10年。僕は、仕事をやめて、つらい状況に追いやられている。仕事から離れたら僕と付き合っても金にならないから人はどんどん去っていく。一方で、それでも付き合ってくれる優しい人たちもたくさんいることはうれしい。

イブラヒムというイラク人がいて、彼のことを本気で心配して面倒を見てやった。彼はその当時、妻をがんで亡くして途方に暮れ今の僕のようにつらい状況だった。いつしか、仕事を手伝ってもらうようになって、サブリーンという貧しいがんの少女を見つけてきて絵をかかせてみたのは、彼のお手柄だった。その後、様子をちょくちょく見てもらうようになった。僕のお目当てはいつも決まって、彼女が描く絵だった。

右目を摘出して左目だけで描く絵は、線がぶるぶるとしていて躍動感があった。彼女が、「私のことを忘れないで」って言い残して私に遺品をくれた。今回、僕は仕事をやめるにあたり、彼女の描いた絵も何枚かは手元に置いておくことができた。サインペンで描かれた絵は、彼女が生きたという証拠そのものだった。僕は、毎年彼女の話を講演でしてきた。

初めてイラクに行って、小児がんの先生に支援をしたいといったら、「たとえ一回薬を届けてくれても、それじゃ子どもたちは助からない。偽善にすぎません」ときっぱり言われた。偽善だって? 上等じゃないか。偽善でも偽悪でも何でもいいから、結果を出せばいい。15年間薬を届けることができたのだから。でもサブリーンだけではなく、僕と一緒に絵を描いた子供たちの多くが亡くなっていったことは悔しい結果だったが。

5年位前にイブラヒムに連れられて、サブリーンの遺族を訪ねたことがある。貧困地区でごみ収集で生計を立てている人たちがたくさん住んでいる地域だ。鉄くずもあり、劣化ウラン弾で攻撃された戦車などが集められていたから放射能汚染していたのだろう。あのお母さんや妹たちはどうしているのだろうか様子を見に行ってくれるとイブラヒムは」約束していた。しかし、その後イブラヒムからは連絡が来なくなって様子がおかしかった。バスラの治安も悪くなっているというので電話をしてみた。

イブラヒムは、「申し訳ない。私にも生活をしていかなければいけないんだ」彼はおびえていた。「これ以上連絡をしてこないでほしい」という。頼んでも彼はもはや動いてくれなかった。10年前は、毎日イブラヒムがサブリーンの様態を伝えてくれて、僕がそれをMLで発信して多くの日本人がサブリーンのことを心配していたのだった。

関西や松本や札幌で、かつてサブリーンのことを心配して涙した仲間たちが僕を呼んでくれた。「私のことを忘れないで」といって死んでいったサブリーン。僕は、サブリーンのことを今までのように話した。そかし、講演が終わるとどっと疲れて、つらくなった。イブラヒムは、すべて忘れてくれという。

イブラヒムはサブリーンと僕を結び付けた絆だった。サブリーンは作られた物語の中で生きていく。その物語には、僕は出てこないのだ。物語は真実だったのだろうか? 感動的な話は、僕が勝手にいろいろ勘違いして、さらに感動的に変えられていったのだろうか? そのことを一緒に語ってあの時こうだったよね? って確認しあえるのはイブラヒムしかいなかった。僕は講演会で話してホテルに戻ると薬を飲まないと耐えられなくなっていた。

でも僕の手の中には、彼女がつけていたサングラスや、洋服、スカーフといった抜け殻。そして魂の入った数枚の絵には、「まきへの贈り物です」と書いてある。それらは、イブラヒムがすべて届けてくれたものだった。そのイブラヒムも僕の目の前から消えていったが、それでも、僕には何かが残っていた。天国への階段があって、それを登っていくとサブリーンが待っている。透き通った心の少女が待っている。

アッサンブラージュ展

11月22日―27日 11:00-19:00(最終日は17:00まで)ギャラリー日比谷

千代田区有楽町1-6-5

グループ展ですが、さとうまきのコーナーでサブリーンの原画と、サブリーンのオマージュ作品を展示します。