パレスチナの記憶喪失

さとうまき

4月から、大学で少し教えさせていただくことになった。タイトルは、地球地域と中東という壮大なテーマである。

で、まずは、中東の本質的な問題はパレスチナだ!と気合いを入れてみるが、なんせ、20年前のパレスチナの事なんかすっかり忘れてしまった。というか僕はイスラエルに入国拒否をされてしまった2002年にすべてパレスチナを封印してしまったのだ。だってもう二度といけない国なので、とっととそんなことは忘れるのがいいに決まっている。

かつて、パレスチナとヨルダンを行き来してた時、タクシーの運転手がパレスチナ難民と聞けば、僕は得意げに、「いや、俺さー、エルサレムから来たんだよ。あんたのふるさとどこ?」なんて聞いてパレスチナ難民に受けようとしていた。

「あの、パレスチナっていうのがいかに素晴らしいかっていうのは、あんたらが言うもんでなくて、僕たち、難民として生まれ、パレスチナを見ることのないものが言うんだよ。そして、そのパレスチナっていうのは、今はどうなっているかっていうと、イスラエルが破壊して自然公園なんかにして、僕たちが持っている鍵で開ける門なんていうのはもう存在しなくて、かすかに石が残っているだけなんだ。さもなければ、ユダヤ人が接収してとっくの昔に立派なビルを建てちゃっているってことぐらい知しってるさ。それでもそこが僕らのパラダイスっていう意味、分かんないかな、君には。」
そんなまなざしを奥にひそめながらも、ドライバーは、「そうかい、そうかい!パレスチナの解放のために戦ってありがとう!」とお世辞を言ってくれた。

2002年になると、イスラエルは難民キャンプやらをやりたい放題に攻撃した。で、そういうのを外に出されるのは嫌がり、ジャーナリストや、パレスチナシンパの人間は極力入国を拒否しだしたのである。イスラエルから入国拒否されるのは、勲章みたいなものだった。同僚たちは、入国拒否のスタンプをパスポートに押されると飛行場の中にある特別な部屋で過ごして、乗ってきた飛行機にまた乗せられて戻される。

そこの部屋には、Free Palestine!とか、ゲバラの似顔絵が書いてあったり、かなりクールだったのだ。井下医師を送り込んだ時、彼はクソまじめに「わしは、攻撃を受けているパレスチナ人の治療のためにやってきました。」「パレスチナ?どこよ。それ?」こうなるとイスラエルの入国審査官の神経を逆なでしてしまい、
「そんな国はない!あんた入国拒否ね!」と一発退場。

井下医師にとっては、誇り高い退場だった。壁にしっかり、落書きをしてきたと自慢げに話していたが、彼が何を書いたと言っていたかは全く覚えていない。

井下医師を説得し、パスポートを作り直させて、「いいですか!あなたは、医者ではなく尺八奏者です。病んだユダヤ人の心を鎮めるために、コンサートをします、といってください。むきにならないように。まず、入国できなければ、僕たちが、パレスチナ人の命を救うという計画がだいなしですよ。いいですか!」

ユダヤ人は、実は尺八に弱く今度はいとも簡単に入国できた。実際に、井下が尺八を見せると興味津々だ。吹いてみようものなら、うっとりして、尊敬の念まで抱く始末。「モサドなんてちょろいもんだ」と僕らは調子に乗った。

続いて、井下医師の助手を務める看護師を送らねばならない。彼女は尺八やその手の音楽は全くダメ。ならばと普通のギャルになりきってもらい、テルアビブにすむ日本人女性ににわかに友人になってもらって、遊びに来ました作戦にした。井下とは一切無関係。迎えにも行かず、エルサレムで落ち合う手はずだった。彼女が入国審査を受け、テルアビブにすむ日本人女性のことを詳しく説明した。

ところが、どういう言うわけか、井下医師が尺八片手に飛行場に現れ、「わしは、尺八奏者じゃ!秘書を迎えに来たのじゃが、まだ出てこないのでどうしたものか」といってきたというのだ。そこで、職員が怪しげな尺八オヤジを尋問しようとしたところ井下医師も我に戻り、このままだと自分も強制送還されそうだと悟り、走って逃げてしまったというのだ。

こうなってくると怪しい。イスラエル得意の拷問が待ち受けていた。
「おまえ、普通のギャルだといいながら、怪しい親父が飛行場に向かいに来ていたぞ。尺八奏者とのつながりは何だ?」
「あいつはなにものだ?テロリストか?」
「し、しりません。ただの変質者かと」
「まあいい、いずれにしてもあなたは、あやしいので入国はできません」
ということで彼女も、結局、収容施設に入れられ、とんできた飛行機に載せられて帰ることになった。

同じ部屋には、妊娠中のコロンビア人の女性がいた。なんでもユダヤ人の彼氏が麻薬の密売に手を染めて、逮捕され、国外追放されることになったらしい。彼女は、パレスチナ抵抗運動の象徴となったカフィーヤをコロンビア人にプレゼントし、コロンビア人はお返しにポンチョをくれたそうだ。

2002年といえばちょうどワールドカップの日韓大会の真っ最中で、日本VSチェニジア戦をイスラエルの警察は楽しそうに見ていたらしい。

次の作戦は、看護師にもパスポートを作り替えさせて、正攻法で行くことにした。僕は直前まで、UN関連の仕事でアメリカのNGOで働いていたのでイスラエルから発給されたビザが残っていた。期限はきれていたが、テロリストとは思われないだろう。イスラエルはアメリカに弱いから、アメリカのNGOにも推薦状を書いてもらった。政治的には中立で、ともかく人道支援をしに行くという真っ向勝負を選んだ。しかも今回は陸路でヨルダンからアレンビー橋を超えることにした。陸路の場合は飛行機のハイジャックとか空港での爆破とかそういうのがないので、審査は楽だろうという読みだった。審査官も緊張感なく、僕は無事に許可が出た。しかし、看護師のチェックになると尋問するまでもなくコンピューターにすでにデーターが入っていたらしく、「この娘はダメ。」「怪しい娘を入国させようとするあんたもダメね」というわけで、「さあ、かえってちょうだい」という。うん? どうやって?
「その辺んにタクシーいるでしょ」
「あの、どこかの施設に入れられるのでは?」せめて落書きくらいさせてほしいのだけど。結局僕たちを連れてきてくれたのと同じタクシーが止まっていたので、しぶしぶそれに乗せられた。

それで、僕のパレスチナでのお話はおしまい。あまりにもあっけなく、扉は閉じられ、二度とイスラエル、いや、パレスチナの地を踏むことはなかった。そして、僕は、悔しさのあまり、パレスチナのすべてを忘れることにした。銀行にお預けてあってお金。買ったばかりのコーヒーカップ。

さあ、あれから19年がたった。生徒たちを教えるので、なんでもいいから思い出さなきゃ。だって、5年もそこで暮らしたんでしょう?