アリバイ横丁

植松眞人

 大阪梅田の阪神百貨店の地下に、アリバイ横丁なる不思議な場所があったことを覚えている人はどのくらいいるだろう。
 阪神百貨店の地下と言っても、百貨店本館にあったわけではなく、百貨店に沿った地下街にアリバイ横丁はあった。人が行き交う地下通路の壁に張り付くように間口三メートルほどの小さなシャッター商店がたくさんあり、その一つ一つの店舗で北は北海道から南は沖縄までの名産品を売っていたのである。
 シャッターを開けると壁に張り付くように商品の陳列棚があり、販売員のおばさんが一人ずつ張り付いている。それぞれの店舗には「東京」「長野」などの都道府県名が記されていて、名産品が少ない県は、いくつかの県が一つの店舗に入っていたりもした。
 アリバイ横丁の名前の由来は、出張と称して不倫旅行などをする際に、帰り際ここで土産物を買って帰ればアリバイが成立するからということらしい。
 平成に入ってからは携帯電話やインターネットの発達で、土産物を買って帰るくらいではアリバイ成立とはいかなくなったのだろう。平成十年ころには、いくつもの県が店終いしてしまい、日本各地の名産品が揃うという場所ではなくなってしまった。そして、平成二十六年にはすべての店が姿を消したそうだ。
 私がアリバイ横丁で買い物をしたのは、一度だけだった。元号が平成になった頃、私は広告代理店に勤めていて、広島に出張したのだった。勤めていた大阪支社から二日間ほど広島の取引先へ行き、出稿する雑誌広告についての打ち合わせをした。
 当時の出張は携帯電話もノートパソコンもほとんど普及していなかったこともあり、出発してしまうと仕事半分、遊び半分になることが多かった。その時も、そんなつもりだったのだが、意外にやらなければならないことがすし詰め状態で、ゆとりもなく帰路の新幹線では疲労困憊といった有様だった。
 そのせいもあって、新大阪の駅に着いてから会社へのお土産を忘れていることに気付いたのだった。
 一瞬、焦ったものの、普段から阪神百貨店脇の地下街はよく歩いていたので、すぐにアリバイ横丁のことを思い出した。大阪駅に着くと、オフィスに戻る前にほんの少し遠回りをして、私はアリバイ横丁へと急いだ。そして、「広島」と書かれた店を探したのだった。 広島と言えば、もみじ饅頭だろうとあたりを付けていたのだが陳列棚にはいくつかの菓子会社のいくつかのもみじ饅頭があり、どれにすればいいのか、私は少し迷っていた。すると、それまで口を開かなかったおばさんが、
「普通のでいいの?」
 と、私に尋ねたのだった。
「はい、そうですね。ごく普通のやつ」
「ちょっと高くて、ちょっと美味しいのもあるわよ」
 おばさんが明るい声でそう言う。
「ちょっと高くてちょっと美味しいなら、そっちにしよかなあ」
 私が言うと、おばさんはさらに、
「倍ほどするけど、量は半分で、そやけど、びっくりするほど美味しいのもあるねん」
 おばさんはそう言って笑った。
 結局、私は自分が所属する部署のみんなのために、ごく普通のもみじ饅頭を三箱買い、自分の隣の席の竹下さんのために倍ほどするけれどびっくりするほど美味しいというもみじ饅頭を一箱買った。
 竹下さんは半年くらい前に、品質管理の部署から移ってきたベテランの事務員さんで、もう三十代後半だというのに二十代にしか見えない。美人というわけではないのだが、溌剌としていて若々しい女性だった。一緒に働き始めてすぐに年齢を聞かされ、若いですね、と私が言うと、同い年のくせに、と逆に笑われたのだった。
 営業の部署に品質管理から人が移ってくることは珍しいのだが、実際に仕事をしてもらうと細かなことに気が付いて、もしかしたらそのあたりが品質管理で培われたスキルなのかと私は常々感心している。
 私が素直にそう言うと、
「几帳面なのは父に似たのかもしれません。うちの父は何でも几帳面な人だったんです」
 竹下さんはそう答えた。
「何でも?」
「そう、何でも。仕事でも几帳面だったとお葬式に来てくださった父の同僚の方々はおっしゃっていたし、家でも部屋が片付いていないとご機嫌が悪くなるんです。毎日きちんと日記を付けていたし。そんな父に似たのか、私も数字なんかがきちんと揃わないと気持ちが悪くて」
 そう話す竹下さんは、ご主人と小学生の娘さん、そして、ご主人のご両親と一緒に暮らしているらしい。
「娘も小学校の高学年になってきたので、仕事も少しくらい残業をしても平気になりました」
 と言って竹下さんはこまめに仕事をしてくれるので、安心して仕事を任せられる存在となっている。そして、その安心できるという仕事ぶりが、いまや私の疲れを癒やす存在にまでなっているのだ。いまどき、そんな同僚は数少なく、少しくらい高いお土産を買っていっても罰は当たらないだろうと思ったのだった。
 支社に戻って、倍ほどの値段がするびっくりするくらい美味しいお土産を渡すと、竹下さんはとても喜んでくれた。
「ご主人や息子さんに食べさせてあげてください」
 私が言うと、そうします、と笑顔で竹下さんは答え、ありがとうございます、と微笑んでくれた。
 広島への出張から二ヶ月くらいした頃だろうか、私は再び広島へ行かなくてはならなくなった。クライアントとも前回、長い時間顔を突き合わせたので、今回は少し気が楽だった。向こうへ持って行く資料などについて、竹下さんと打ち合わせたときに、
「また、あのもみじ饅頭でいいですか?」
 と、聞くと、
「お気遣いいただかなくてもいいんですよ」
 と竹下さんは心から申し訳なさそうに言うのだった。
「広島駅前の土産物屋のおばさんが、ものすごく美味しいって言ってたんですが、僕自身は食べてなかったので少し心配してたんですよ」
「美味しかったですよ。あれは値段も高いし」
 そう言ってから、竹下さんはしまったという顔をした。
「値段、知ってるんですか?」
 思わず聞き返してしまった私に、竹下さんはしばらくの間、答えづらそうに黙っていたのだが、にっこりと笑ってから答えた。
「アリバイ横丁でしょ?」
「ああ、そうなんです。でも、どうして?」
 竹下さんは財布を取り出すと、一枚のレシートを取り出した。
「あそこは、包装紙も現地のものだし、ばれることはないんです。でも、レシートはね」
「入ってたんですか?」
 焦った私はレシートを手に取ると、そこに書かれた内容に見入った。
「うちの父も同じ失敗をしてました」
 竹下さんはそう言うと声を出して笑った。
「あの几帳面なお父さんが?」
「そう、几帳面な父が…」
 竹下さんは改めて、私の手からレシートを受け取ると、それを眺めながらお父さんの話をした。
「父はおめかけさんに会うのも毎週水曜日と決めていたんです」
「おめかけさん?」
「いまで言う不倫相手ですね。その人と毎週水曜日に会っていたそうなんです。父が亡くなった時にその相手の人から聞くまで知らなかったんですけどね」
「なるほど、でもそれならアリバイ横丁は必要ないですよね」
 私がいろいろと考えを巡らせてそう言うと、「父のお通夜の時に、その人がお焼香に来たんです」
 竹下さんはそう話し始めた。
 竹下さんのお父さんは今から十年ほど前に亡くなった。ちょうど竹下さんが結婚した歳だったそうだ。新婚旅行から帰ってしばらくしてから、ちょうど暮らしが落ち着いた頃に、お父さんは何の前触れもなく亡くなったそうだ。心臓は弱かったけれど、手術をする必要まではなく、特に亡くなるときにも心臓発作だったわけではないらしい。ふいに、気分が悪くなって病院に運ばれ、家族みんなと今生の別れをした頃に、息が弱くなり逝ってしまった。七十歳を少し過ぎた所だったけれど、医者が言うにはまるで老衰のように亡くなったということだった。
 遺された家族は、それも几帳面なお父さんらしいと穏やかな気持ちで見送ったそうだ。
 その翌日、お通夜が開かれたのだが、そこにお父さんのおめかけさんが現れた。なにもおめかけさんだと名乗ったわけではないのだが、竹下さんのお母さんにはわかったらしい。「お焼香をさせていただこうと思いまして」
 そう言いながら現れたお母さんよりも十歳くらい若い女性に、お母さんは言ったそうだ。
「一緒に岡山に行かれた方ですよね」と。
 すると、その女性は「はい」と答えたそうだ。
「お土産を買うのを忘れたんですね」
「はい」
 相手の「はい」という返事を聞くと、竹下さんのお母さんは、財布の中から一枚のレシートを出したそうだ。
「あの時のレシートです。土産物と一緒に入っていました」
「そうですか」
 そう言って、相手の女性はそのレシートを受け取り、申し訳ありませんでした、と深々と頭を下げた。
 竹下さんのお母さんは、頭を下げた相手をじっと見やったあと、
「几帳面な人だったので、仕事だと言って旅行をしてもお土産を忘れるようなことをするとは思えません。きっと、あなたといて自分を忘れるくらい楽しかったのね。そう思って、大事にとっておいたのよ」
 そう言って笑ったそうだ。
「なんだか、ものすごい話ですね」
 竹下さんが話し終えると、私は素直にそう感想を伝えた。
「そうなんです。アリバイ横丁って怖いとこですよ。ああ、良かった、ここがあって。そう思って安心するから、レシート一枚のことを忘れてしまうんでしょうね。同じ袋にレシートを突っ込むなんてことは普段ならしない人でも、忘れちゃう」
 私はなんだか自分が不倫旅行でもしてきたような気持ちになってしまい、竹下さんに叱られているような気持ちになってくるのだった。
「以後、気をつけるようにします」
 私が気恥ずかしさをごまかすように言うと、竹下さんはにっこりと微笑んで、また自分の財布からもう一枚のレシートを取り出した。
 アリバイ横丁のレシートだった。信州のそばの詰め合わせと商品名が印字されていた。
「信州……。これもお父さんの?」
 私がそう言うと、竹下さんはいたずらっ子のように笑いながら、そのレシートを丁寧にたたんで財布へしまい込みこう言った。
「これは、主人です。長野の出張土産だって渡された袋に入ってました。私に負けず劣らず用心深い人なんですけどねえ」
 竹下さんは、レシートから目を離すと笑った。
「竹下さんも大事にとっておくんですか?」
 私がそう聞くと、竹下さんは、
「どうしようかしら」
 と小さな声でつぶやいた。