バスを降りる。

植松眞人

 人間にはバスに乗る者と乗らない者がいる。そして、バスに乗る者は毎日のように乗り、乗らない者はめったに乗らない。そして、それは好き嫌いに関係なく住んでいる土地によって縛られることが多い。
 バスは不便だ。鉄道のように専用の通路があるわけではない。自動車の通行量が増えると図体のでかいバスは行く手を阻まれて運行時間がどんどん遅れていく。時には十分、二十分と予定時刻を過ぎてもバス停に待たされることがある。また、郊外になるとバスの本数そのものが少なく、一時間に一本あれば御の字ということだってある。
 だから、多くの人はバスに乗るくらいなら、とマイカーに乗ったり自転車に乗ったりする。しかし、マイカーは財力がないと乗れないし、自転車は体力がないと乗れない。結果、バスの中は年寄りが多くなる。
 さて、年寄りが多くなると、座席の重要性が問題になってくる。そう、すべての座席が優先座席となり、乗り込んでくる年寄りを見て見ぬ振りをすることが難しくなるのである。ただし、どんなに若くても揺れるバスの中で立っていたい、と思うものは稀だ。出来ることなら座りたい。しかも、見ず知らずの他人が隣に座るよりも、一人でゆったり座りたい、と願う。
 私はバスに乗る側の人間だが、私が普段乗っている市バスも例に漏れず年寄りが多く乗ってくる。しかし、都心に仕事で通う人も多い土地柄なので若い人がいないわけではない。時間帯によっては年寄り九割ということもある。私はそろそろ還暦を迎えるのだが、年寄りとくくられるほどには耄碌していない。この間も試しにつり革を持ったふりだけをして、つり革に手を触れないままで二つほどのバス停に到着するまで立ったままバスに乗車してみた。電車と違ってバスはよく揺れる。その中を立ったまま過ごすのはなかなかに難しい。しかし、私はそれをやってのけたのだ。つまり、私はそこそこ歳だが、そこそこバランス感覚もいいし足腰もしなやかで強い、ということになる。
 それでも、座りたいのだ。それなのに、明らかに私よりも若く、明らかに馬鹿そうに見える男が私の目の前にある二人がけの座席のど真ん中に一人で座っている。そして、スマホを横に持ちゲームに興じている。
 これが年寄りならゆるしてやる。社会の常識を知らなくても、間もなく逝ってしまうのだから、今さら私から言ってあげることはなにもない。しかし、目の前の男はまだ四十代とおぼしき生々しさと脂っこさが見てとれる。なんなら、実際に脂臭い体臭がする。こんな奴をのさばらしておいてはいけない、と私は考え、思い、ほぼ条件反射的に言葉を発してしまう。
「申し訳ないのですが、奥に詰めてもらえますか」
 私がそう言うと、男はちらりと私を見て無視をしたのであった。大の大人が、大の大人に声をかけているのに無視をされるという状況を上手く飲み込めずに、私はもう一度声を出す。
「奥に詰めてもらうことはできますか?」
 すると、男はやけにはっきりとした声で返事をする。
「いやです」
 その声はおそらくバスの真ん中あたりに座っていたすべての乗客に伝わるほどのはっきりとしたものだった。私はそう言ったまま再びスマホゲームに見入って顔も上げない男をしばらくの間眺めていたのだが、不意に男の姿が滲んだことに気付いた。私は泣いていたのだった。なぜ泣いているのか、私にはわからなかった。理由もわからないまま泣くとき、人は泣いていることになかなか気付けないものなのかもしれない。
 ちょうどバスがバス停に着いた。降りるバス停ではなかったし、誰も降車ボタンを押していなかったのだが、降車口に向かった私を察した運転手が降車口のドアを開けた。私は素早く降りた。降りたバス停は小さな小川のほとりにあった。(了)