コロナ禍で始めた「東京水際二万歩次」、最初は「一万歩」だった。自宅から何かしらの水際をたどってほうぼうへ歩く。途中お店で休憩することもできない日帰りの散歩なので、せいぜい一回一万歩だった。それから徐々に電車に乗るようになり、店で休むこともありになり、今も続いていて四万歩を超えることもある。歩いたところをGPSで記録したこともあったけど、あとで地図を見ながら道をたどるほうが断然楽しく、しかしこんなに長く続くとは思っていなかったので、あとさきを考えずその都度適当な倍率で地図をプリントして塗り塗りしてきたので、収集がつかなくてちょっと困っている。
2020年の初夏には旧江戸川沿いを歩いた。JR浦安駅からディズニーリーゾトラインに乗り換え、リゾートゲートウェイ・ステーションから東京ディズニーランド・ステーションまで、ひとステーション乗ってみた。閉館中で客のいないランドの周りを海岸線にそって一周し、旧江戸川へ。川沿いを上ると、ほどなくしていい感じの船だまりがあった。さらに歩くと小さな水門、猫実五丁目、橋の手前の船宿には、大きく「山本周五郎著『青べか物語』」の文字。ん、ここが青べかの舞台なの? 本で地図で見ていたあの場所に、行き着いてしまった。
……みたいなのが、この散歩の楽しみでもある。最近では利根川への合流地点から鬼怒川沿いを歩き継いでいたとき。携帯に電話が入り、長話になりそうなのでちょっと脇にそれたらば、なんとそこは「真景累ヶ淵」のお塁の墓がある法蔵寺だった! 手を合わせて、新吉が江戸の根津から連れ逃げてきたお久を殺めた土手ってこのあたりなのかなと、裏に回って土手に出てみる。木陰で青空文庫の「真景累ヶ淵」を開いてその場面を確かめる。
〈と下りようとすると、土手の上からツル/\と滑って、お久が膝を突くと、久「ア痛タヽヽ」 新「何うした」 久「新吉さん、今石の上か何かへ膝を突いて痛いから早く見ておくんなさいよ」 新「どう/″\、おゝ/\大層血が出る、何うしたんだ、何の上へ転んだ、石かえ」と手を遣ると草苅鎌。田舎では、草苅に小さい子や何かゞ秣を苅りに出て、帰り掛に草の中へ標に鎌を突込んで置いて帰り、翌日来て、其処から其の鎌を出して草を苅る事があるもので、大かた草苅が置いて行った鎌でございましょう。お久は其の上へ転んで、ズブリ膝の下へ鎌の先が這入ったから、夥しく血が流れる〉
ただ読むとなんてことないんだけど、この草刈鎌が登場するところがいいんだな。新吉がこの鎌でお久を殺めてしまうと、あたり一帯に雨が降り雷が鳴り響く。それを藪の中から見ていたのが地元の悪漢・甚藏で、そしてこの男が……と話は続く。われわれがこの土手にいる間は雨もなし雷もなし。そして藪ごしに見た鬼怒川には、小さな舟で気持ちよさそうに糸を垂らす男の人がいた。
とまあ、青空文庫にはこんなふうにもお世話になっているわけだが、先月、ブログの書籍化サービスをするMyBookから「青空文庫も本にできるようになりました」と案内が届いた。私はここで、自分のブログを何度かに分けてプリントしている。いずれブログサービスもなくなるだろうから、バックアップのつもりで自分用に一冊ずつ。〈Mybooks.jpにログインして、上部ナビの「+新しく作る」から「青空文庫を本にする」を選んでください。(中略)5作品までをまとめることが可能です。(表紙等含め480ページ以内)〉。本にできない作品があること、著作権が存続している作品があることなどなど、細かな注意書きもある。岩波文庫版『真景累ヶ淵』は解説抜きで464ページ。MyBookで文庫本サイズにするならば、マックスでだいたいこんな見当になるだろうか。
今見たら青空文庫には山本周五郎の『青べか物語』もあった。こちらは初出が「文藝春秋」の1960年1月号から。川島雄三が『青べか物語』を撮ったのは1962年だから結構早いような気がする。実際にこの場所を訪ねたあとに改めてこの映画を見たときは、冒頭で映し出された東京湾上空からの映像にまずぐっときてしまった。東京タワー、勝鬨橋、夢の島あたり、造成中の京葉工業地帯、べか舟がひしめきあう境川と周囲の家々、そしてなにより旧江戸川河口の広大な大三角。
浦安市の公式サイトの「市の歴史」から、そのころを読んでみる。1958年、本州製紙江戸川工場からの排水で界隈の魚介類が大量死滅。漁場汚染と海面埋め立てがそれぞれ進み、1962年には浦安の漁業者が漁業権の一部を放棄、その3年後には埋め立てが本格化、とある。子どもたちに向けた記述の中には、昭和23年・昭和47年・平成5年の空撮写真を矢印で進めて、「昔の浦安は小さかったのね」「そうだね 埋め立てによって 今の浦安の面積は明治42年(1909年)の約4倍にも広がったんだ!」と書いてある。埋めた土砂はどこから持ってきたんだろう。近くの海砂と聞くけれど、その場所は今どうなっているんだろう。
さっきまでうまいうまいと食べていたものを満腹だと言って捨てたとたんにゴミ扱いにする、われわれの思考のフラクタルにめまいがするし、水際というものの後戻りのできなさに呆然とする。水際を歩くときにはせめて下の下あたりまででも響いてくれと願いながら、せいぜいよく地面を踏みしめていたい。