娘と乗った観覧車

植松眞人

 その小さな遊園地はもうない。長い歴史を持つ野球場の傍らを抜けて十五分ほど歩くと、とても小さな観覧車が家々の合間に見えてくる風景がとても好きだったけれど、もうその遊園地はない。
 子どもたちがまだ幼かった頃、この遊園地の近くに住んでいて、年に何度か連れて行った記憶がある。私が小さな子どもの頃には休日になると家族連れでごった返していたが、自分の子どもを連れて行く頃には、もうその遊園地は寂れていて、ほとんど客はいなかった。敷地の半分は住宅公園になり、併設されていた動物園もなくなっていた。遊園地の真ん中に四階建てくらいのコンクリートの打ちっぱなしのような建物があり、その中にかつての賑やかだった園内の写真が展示してあった。子どもたちが目を輝かせて象を見ている写真やヒーローショーの写真もあった。少し奥に入っていくと、いまでは考えられないけれど、ライオンとヒョウを掛け合わせて産ませた合いの子動物の剥製がくたびれた毛並みで飾られている。
 その日は、なぜか私と娘だけの二人で、今はないその遊園地に出かけたのだった。娘は幼稚園の年中さんだった気がする。父親によく懐いてくれた娘だったので、二人で手をつないで笑いながら園内を歩き回り、パンダの形をした乗り物に乗ったり、片隅に置いてあるモグラ叩きをして遊んだ。
 そして、最後にあの小さな観覧車に乗ったのだった。観覧車の脇には小さな小屋があり、いかにも学生アルバイトらしき男の子が乗車切符を売っていた。料金は二周で二百円だったか三百円だったか。支払を済ませて、娘と二人で小さな観覧車の小さなカゴに向かい合わせに座る。定員は四人だが、四人も乗れるのだろうかと思うくらいカゴは狭かった。それでも、娘はワクワクした顔をしていて、そんな娘の顔を見るだけで私は幸せな気持ちになれた。カゴはゆっくりとあがっていく。いくつくらいカゴがあっただろうか。おそらく二十もなかったような気がする。高さもビルの十階分もなかったはずだ。てっぺんまで行っても、周囲のオフィスビルの部屋の中がよく見える程度の高さだったと思う。それでも、いつもと違う景色に娘は、あちこちを指さして話している。
「お父さん、おうちはあっちのほうかなあ」
「お父さん、幼稚園はあっちかなあ」
「お父さん、ママはお買い物してるのかなあ」
 そんなことを話して笑っている娘を見ながら、毎日の時間をこの娘を最優先に使っていないという罪悪感のようなものに私は苛まれた。
 やがて、規定の二周目が終わり、カゴが地上付近に着いた。しかし、カゴのドアが開けられることはなかった。あれ、と思っている間に、カゴは三周目をあがり始めた。上がり始めたかごの中から小屋が見えて、さっきのアルバイトがうたた寝をしていた。他に客もいないのだから、昼寝もしたくなるだろう。
「あいつ、寝てるな」
 私が言うと、娘も小屋をじっと見る。
「ほんとだ、寝てる」
「ま、いいか。もう一周だね」
「うん。お得だね」
 と、私たちは三周目の観覧車を楽しんだ。アルバイトは三周目が終わっても起きず、四周目が終わっても起きなかった。
「お父さん、このままお兄さんが起きなかったらどうしよう」
 と娘が言い出したので、五周目が降り始めたあたり、小屋に声が聞こえそうなあたりで、私はアルバイトに呼びかけた。
「おーい。到着するよー」
 アルバイトは起きる気配がなかった。娘も一緒になって叫びだした。
「おーい」
「おーい」
「おーい」
「おーい」
 それでも起きる気配がなかったので、私はカゴのドアを叩いた。甲高い音が周囲に響いた。観覧車の近くを歩いていた人たちが振り返るくらいの音が出て、やっとアルバイトが目を醒ました。しかし、その時にはすでに私たちが乗ったカゴは六周目の上昇を始めていた。アルバイトはカゴのすぐそばまで来ていたが、間に合わず、眠そうなすまなさそうな顔をして、私たちに頭を何回も下げ続けた。
「次で終点だね」
 娘が笑う。
「次が終点だね」
 私が笑う。
 観覧車は六回目のてっぺんにきた。空は薄曇りで遠くに海が見えていた。(了)