木立の日々「風の吹く日」

植松眞人

 風の強い日はマンションの前を走る車が増える。県内を走る鉄道が海沿いのひらけた場所を通るので、強い風が吹くとすぐに止まってしまう。地元の人たちはそれをよく知っている。だから、列車が止まっていなくても万一を考えてマイカーで動きはじめる。だいたいこのあたりは車社会なので仕事もプライベートも車なしでは活動しづらいのだ。しかも、このあたりは風の強い日が多い。海から吹く風と山から吹く風が町のなかで様々な方向に舞う。
 マンションの二階のベランダから外を眺めながら、木立は風を思い、自分の名前のことを考えていた。木立と書いて「こだち」と読むのだが、この男か女かわからず、かわいいかどうかも微妙な名前を木立自身は気に入っている。というよりも、だんだんと気に入るようになっていた。
 木立が生まれた日にも風が舞っていたらしい。産婦人科の母が入院していた病室の窓から見える木立が風に揺れていたから、木立という名前をつけたのだと父から聞いたことがある。幼稚園だった私が泣いて、せめてひらがなの名前がよかった、こだちちゃんなら可愛いけど、漢字で木立って書くと男か女かわかんない、と抗議した時に笑いながら父が教えてくれたのだった。
 いまは「こだち」という響きも、「木立」という字面も嫌いではなかった。
 その父が家を出たのは木立が高校生の頃だった。理由は母との関係が冷え切っていたからだが、そうなったのは木立のせいだった。
 中学生になったばかりの木立は、父の携帯電話に浮気相手の写真があることに気付き、それを母に伝えた。その時はなんとなくドラマのワンシーンに自分が参加しているような気持ちだったのだけれど、母の凍り付くような表情と父のあからさまな嘘を聞いているうちに自分がとんでもないことをしたのだと気付いた。しかし、後には引けず笑いながらその場を逃げ出したのだった。塾へ行き帰ってくると、家の中は何事もなかったかのように穏やかになっていたのだけれど、その日から父と母が二人だけで話をすることはなくなった。
 父は今まで以上に帰宅が遅くなり、母は飲めなかったアルコールを台所で飲むようになり、小学生だった弟は木立にばかり懐くようになった。父と母は冷え切った関係のまましばらく暮らし、弟が東京の大学へ進学すると同時に離婚した。
 両親の離婚からもう三十年ほど経った。父も母も離婚後十年ほどの間に病気でなくなったのだが、どちらも自死と言ってもいいほど自暴自棄な生活を送った末のことだった。
 弟の和道はそのまま東京で就職し、結婚し、子どもも二人いて、何不自由のない暮らしをしているようだ。ただ、木立が連絡する以外、向こうから連絡があることはない。たった一人の肉親が自分に冷たいのは、きっとその原因を作ったのが木立だと思っているのだろう。
 ふいにベランダから見える遠くの山々のその向こうに和道の家族が住んでいるのかと思うと木立は胸が締め付けられるような気持ちになった。
「そろそろ行かなきゃ。遅れちゃう」
 木立は声に出して言うと、ベランダを出て戸締まりをした。今日から新しい仕事が始まるのだ。町外れに出来たホームセンターのレジ係の仕事なのだが、これは望んだ仕事ではなかった。木立は大学を卒業してから小さな商社で事務の仕事を三年ほどしてから結婚した。相手は同期入社の男だったが、木立の両親と同じ理由で離婚することになった。離婚して、両親と共に暮らした家に戻ってみたのだが、あまりの痛み具合と一人では持て余す広さに売り払うことに決めたのだった。しかし、たいした金額になったわけでもないので、このマンションを買うのが精一杯だった。このマンションに決めたのも、東京に戻ってマンションを買うとなるととても手が届かないので、なんとなく地元の中古マンションを買ったのだった。

 木立の地元は都心まで車で二時間ほどのところだが、近くに温泉があることから温泉療養施設付きのマンションがいくつも建てられたことがある。しかし、急な雨雲が星を掻き消したような不景気の闇が続き、この町にはいくつもの中古マンションが格安で売られるようになったのだ。最近では若い夫婦たちがそんなマンションを購入して、自分たちでリノベーションするのが流行っているそうだ。なかにはマンションの一階部分を購入し奥を住まいにして玄関側をブティックにする若い人もいて、ちょっとオシャレなスポットとして雑誌に紹介されることもあるくらいだ。
 しかし、木立は長く専業主婦だったので、どんな仕事をすれば良いのかもわからず、ホームセンターで商品の仕分けでもできないだろうかと電話をかけたら、レジ係ならと言われパート勤めを決めたのだった。まだ勤め始めて三月ほどだが、まだ少しでもイレギュラーなことがあると木立の担当しているレジだけが長蛇の列となり、昨日も店長からため息交じりに叱られたばかりだった。
 今日の仕事は午後からだったので、午前中ゆっくりとコーヒーを飲んだ後、木立は車に乗り込むと海沿いの県道を走った。夕べからの強い風のせいで道路は混んでいたが、もう風はおさまっていた。(了)