この8月13日にジャワ4王家の1つ、マンクヌゴロ家の当主であるマンクヌゴロ9世が69歳で亡くなった。そのお葬式から埋葬の模様はZOOMおよびyoutubeでも配信され、私も途中からしばらく見ていた。9世は当初スカルノ大統領の娘スクマワティと結婚し息子がいるが後に離婚、現王妃との間にも王子がいる。実は、留学中に私はこの王子のテダ・シテン(大地に足を付ける儀式、生後約8か月で行う)の儀礼に出席させてもらっているから、この王子はまだ20代半ばくらいのはずだ。この2人のどちらかが後を継いで10世となるだろうと思われる。9世の埋葬後、この2人は墓の前で一緒に9世の写真を掲げて撮影に応じていた。今までのジャワ王家の例を見ていると、新当主即位までだいたい半年くらいはかかりそうだが、円満に代替わりしてほしいと感じる。
というわけで、今回はジャワ4王家の世代交代について感じたことについて書いてみる。
●ジャワの4王家
ジャワの4王家は、16世紀後半にジャワ島中部に興ったマタラム王国の末裔のことである。マタラム王国が1755年に対等に分裂して生まれたのがスラカルタ王国/王家とジョグジャカルタ王国/王家で、これらの2王国はオランダ植民地支配の下でも自治領を維持した。1757年にスラカルタ王家からマンクヌゴロ家が分立、1813年にジョグジャカルタ王家からパク・アラム家が分立した。ちなみに、パク・アラム家の分立はイギリスのジャワ占領期(1811~1816年)のことである。
1942~1945年、日本軍がインドネシアを占領。1945年8月17日にインドネシアが独立宣言し、約5年間の独立戦争を経てインドネシア共和国が発足した。ここで、スラカルタ王国とジョグジャカルタ王国の命運が分かれる。ジョグジャカルタ王国は共和国への貢献が認められて特別州とされ、ジョグジャカルタの王は世襲の州知事、パクアラム家当主も世襲の副知事として認められ、それは現在まで継続している。一方、スラカルタ王国は特別州として認められず、その所領(スラカルタ市とその周囲の6県)は王宮の敷地を除いてすべて中部ジャワ州に編入され、スラカルタ王家とマンクヌゴロ家はその政治的・経済的特権を失った。
スラカルタ王家当主
- パク・ブウォノ12世(1925生、1945~2004)
- パク・ブウォノ13世(1948生、2004~)
マンクヌゴロ家当主
- マンクヌゴロ8世(1925生、1944~1987)
- マンクヌゴロ9世(1951生、1987~2021)
ジョグジャカルタ王家当主
- ハメンク・ブウォノ 9世(1912生、1940~1988)
- ハメンク・ブウォノ10世(1946生、1989~)
パクアラム家当主
- パク・アラム 8世(1910生、1937~1998)
- パク・アラム 9世(1938生、1999~2015)
- パク・アラム10世(1962生、2016~)
スラカルタのパク・ブウォノ12世は日本軍占領時代末期の1945年6月に弱冠20歳で即位し、マンクヌゴロ8世もその前年に19歳で即位している。それに対してジョグジャカルタでは、ハメンク・ブウォノ9世は28歳で即位してインドネシア独立宣言時には33歳、パク・アラム8世は27歳で即位して独立宣言時には35歳だった。この独立宣言時点でジョグジャカルタの当主たちの方がスラカルタの当主たちよりも一回り以上年齢が上で、5年以上在位して宮廷内での地位も固まっていたであろうことが、政治的に立ち回る上で有利に働いたように感じる。その意味ではスラカルタ王国には運がなかった。
●スラカルタ王家のお家騒動
スラカルタの本家の方では、パク・ブウォノ12世が2004年に逝去したのち、現・13世とテジョウラン王子による後継者争いが起きた。12世には皇后がなく、6人の妻との間に35名の王子、王女をもうけたが、生前に後継者を指名していなかった。現・13世の名はハンガベイといい、これは王の最初の王子に付けられる名である。皇后がいない以上、ハンガベイ王子が後継するのが妥当だが、諸理由からそれに反対する声も12世在世中からあった。ハンガベイ王子を押す同母きょうだいと、テジョウラン王子を押す他のきょうだいたちが対立していたが、2012年に和解が成立した。とはいえ、その後も別の内紛が続いている。
私は1996年以来2007年までの間で通算6年余り、留学や調査でスラカルタに滞在し、スラカルタ王家の宮廷舞踊練習や様々な伝統儀礼への参与観察の機会を与えてもらった。そのうち5年余りはパク・ブウォノ12世の在世中である。逝去された時点では大学院進学のため日本に帰国していたが、100日目の供養には出席することができた。だから、内紛続きのニュースを聞くたびに、胸がつぶれる思いがする。