本屋の二階

植松眞人

 東京の鶯谷には正岡子規が住んでいた旧居がある。
 上野界隈には明治から昭和にかけて文豪と言われた小説家が住んでいた場所が数多くあって、地域では文豪の街として活性化を図っていたりもする。
 鶯谷にも何人かの文豪の痕跡があるらしいのだが、それよりもなによりも鉄道の駅前がラブホテルで埋め尽くされていて、文豪の街だと喧伝するには困難なものがある。
 正岡子規の旧居の前をたまたま通りかかり、ここがそうなのかと独りごちたのはもう何年も前のことだ。しかし、きちんとした看板が掲げられて記念館のようになっている旧居に立ち入ったことはない。そもそも、小説家の記念館のような場所に行って、生前使っていた万年筆や原稿用紙を見たところで何がどうなるというものでもない。ごくたまに、あまりにも小さな座卓の上にこじんまりと筆記用具が並べられている様子を見て、こんなに狭い机上からあんなにも大きな物語が生まれていたのかと感嘆するようなことはあるが、そんなことは希だ。
 しかし、この正岡子規の旧居の前を通ると、不思議に行き着く書店がある。鶯谷と日暮里の中間。少し日暮里寄りの場所にその書店はある。小さな民家を改装したような作りで、二階建てになっており、いかにも趣味の良さそうな古書店の様相を呈している。だが、実際に硝子戸を引き、中に入ってみるとそこは新刊書ばかりの普通の書店で、場所柄なのかどうか店先の一番目立つところには売れ筋のファッション雑誌と漫画雑誌が並べられている。そして、レジがありレジの脇から奥へ続く通路の両脇には成人雑誌が驚くほどの種類並べられているのである。
 数年前に初めてこの書店に足を踏み入れたときには、いったい世の中にはこんなにたくさんの種類の成人雑誌があるのかと呆然とした覚えがある。品のいいヌードグラビアがあるかと思えば、男の私でも目を背けたくなるようなあからさまに卑猥な裸の表紙がある。男の同性愛、女の同性愛、変態性欲などなど趣味趣向によってジャンル分けされていて、さらに枝葉は細部へと伸びていく。どちらかと言えば、同性愛ものが多く、五年ほどの間に、数回しかここには来ていないのだが、それらしい常連客と出くわすことがたまにある。しかし、みな目的の本があってそれを手に入れるためだけにやってくるので、あまり店内をうろうろとすることがない。
 私はいつも店内に入ると、すぐ脇のレジに座った、夏でも毛糸の帽子をかぶった中年の男性店主をちらりと観察する。おそらく五十代の半ばくらい。真面目そうな男で、いつも、手元の本を読んでいる。客が声をかけるまではほとんど顔を上げることはない。本を見て回るばかりで買ったことがない私は、まだ店主の顔を真っ正面から見たことがないのだった。
 この日も私はほぼ一年ぶりに仕事の打ち合わせのために午後遅く鶯谷の駅で降りたのだった。そして、日暮里方面に歩いている時に正岡子規の旧居の前を通り、この本屋へと自然に足を向けたのだった。
 以前に来たときと同じように、硝子戸を引き店内に入ると、その日はレジに店主の男性がいなかった。私は漫画雑誌の前を通り、成人雑誌の棚の方へと向かった。相変わらず様々な種類の成人雑誌があり、妙に湿気て重くなったような空気を楽しんでいた。
 すると、いつも気付かなかったのだが、成人雑誌の奥の方に続く通路があり、その先に階段があるのだった。前に来たときにも、もしかしたら気付いていたのかもしれないが、だとしたらあまりのさりげなさに、二階の生活圏への入り口だと考えたのかもしれない。しかし、下からのぞくと本棚のようなものが見えたので二階にも本があるのだろう。私はぎしぎしと音を立てる階段をゆっくりと上がった。
 二階には毛糸の帽子を被った店主がいて、棚の整理をしていた。座った姿しか見たことがなかったのだが、立ち上がった店主の背は高く、百七十センチは優に超えていて、百八十センチ近いのではないかと思われた。古い作りのこの書店の作りだと、鴨居に頭をぶつけることだってあるだろうと余計な心配をしたくなるほどだ。
 私が驚いていると、整理に集中していた店主も驚いたようで、「こんにんちは」といつも言わない挨拶をするのだった。
「二階にも本があるとは思いませんでした」 あたしがそう言うと、店主は
「二階に上がってこられたお客さまは初めてです。みなさん、目的の本があって来られるので」
 というと手元にあった本を棚に並べていく。その並べられた本を見ると、背表紙には『あの頃』という題名が見えた。著者は田中隆実とあった。そして、私は驚いた。店主が並べた本の隣にも同じ田中隆実の『あの頃』が並べられていて、その隣にも、さらにその隣にも同じ本があり、よく見ると、二階の棚の本はすべてが同じ本で埋め尽くされているのだった。
「これは、先代が書いて自費出版した小説なんです」
 そういうと、店主は薄く笑った。
「先代というのはお父様ですか」
 私が聞くと、店主は首を横に振る。
「父親のようによくしてもらいましたが、血のつながりはありません」
 店主はしばらく黙っていたが、私が勝手に二階に上がってきてしまったことで戸惑っているのだろうか。
「私は大阪の生まれなんですが、こっちの大学を目指して上京しまして。働きながら大阪からこっちの大学に来て、このあたりで下宿をしていたんです。その頃に田中さんと知り合って、ひょんなことからこの店を継ぐことになったんです」
 店主は諦めたように話し始めた。
「まったくの他人なのに、ですか」
「はい。田中さんには身寄りがなくて、遺産を継ぐ人もいなかったものですから」
 もともと、二階は田中隆実が居住していて一階はいまよりもさらに成人雑誌ばかりだったらしい。それを引き継いだ店主が、通学路に成人雑誌の専門店があるのは由々しき問題だ、というPTAのクレームを受けて一般雑誌を正面に置くようになったのだという。
「田中さんが寝泊まりしていた場所で暮らすというのはなんとなく気が引けて、結局棚を置いたんです。そして、貸倉庫に預けてあった田中さんの本を並べてみたんです。一冊も売れたことはないんですけどね」
 そう言うと、店主は笑いながら愛おしそうに『あの頃』と書かれた田中隆美の本の背表紙を撫でた。
 打ち合わせの時間が迫っていた。私はふいに二階に上がったことを詫びたあと、『あの頃』を一冊手にとって買うと申し出たのだが、店主は差し上げます、と金を受け取らなかった。
「これも何かのご縁ですから、ぜひ読んであげてください」
 柔らかい笑顔でそう言うと、店主は小さく頭を下げた。私はそのまま本を受け取ると自分のバッグにしまい一礼して階段へと向かった。一段二段と階段を降りたところで私は二階を振り向いて、
「田中さんとはどこで知り合ったんですか」
 と、聞いてみた。
 すると、店主ははにかむように笑う。
「私がこの店の常連だったんですよ」
 店主はそう言うと、再び私に頭を下げた。 私は階段を降り、成人雑誌が並べられた棚の前を通り、店の外に出た。
 田中隆実の『あの頃』の入ったバッグを片手で抱えながら、陽の暮れた鶯谷の街に私は立った。ほんの少し冬の訪れを予感させる風が吹いた。(了)