カレーで有名な新宿中村屋を興した相馬黒光は、仙台の人である。明治8年(1975)、城下町の西のはずれ、木町末無(きまちすえなし)というところに生まれ、横浜のフェリス女学院に入学するまで多感な少女時代をこの街で過ごした。
幼年期から少女期にかけてのことは、自伝的随筆『広瀬川の畔』にくわしい。この秋、この本をテキストに話をする必要に迫られて少していねいに読んだ。黒光自身に興味を持つ人は、のちに事業家として成功し、サロンをつくって若い美術家や作家を育てた一人の女性がどんなふうに育まれたのかを読み込もうとするのだろうけれど、私がいちばん心ひかれたのは明治初めの士族の没落していく暮らしぶりだった。
黒光がこの随筆を書いたのは還暦を過ぎて数年がたったころ。抜群の記憶力で少女の眼がとらえた生活の変化を再現していて、明治という新しい時代の中で困窮していく武家の暮らしの記録としてもとても貴重なものだと思う。
黒光のもともとの名前は星良(ほし・りょう)。星家は伊達家の中級武士で、祖父の星雄記(ほし・ゆうき)は藩に建白書を出すなど剛毅な行動で知られる人だった。そんな名をなした武家も、仙台藩が戊辰戦争に負けて明治を迎えると、みるみる生活が逼迫していく。
黒光が子ども時代の明治10年代、まだ仙台市は誕生していないし東北線も開通していない。草ぼうぼうの武家屋敷が点在する荒廃した旧城下に軍隊がやってきて軍人がサーベルを鳴らして歩き、控訴院や監獄などの疑似洋風の木造建築が出現し始める。風景は定まらず混沌としている。そして、江戸時代の風習も生活も残る一方で、近代の新しい文化がまだまだ定着しておらず、宙づりにされて動くに動けないでいるような人々の姿が生々しい。
社会の激変についていけず立ち尽くしているような父親に代わって、一家を切り盛りしていくのは黒光の母親だ。生活のために日々こなしていたのは、農事。たぶん500坪に及ぶような広大な屋敷地を頼りに、春夏は茶を栽培し、作男を使って製茶し、蚕を育て、秋には柿をむき、冬は漬物を仕込み、休みなく機を織る。まるで農家の嫁のような毎日が続くのだけれど、資料にあたってみると、養蚕や製茶や地織りを奨励し士族に自活の道を開くことが仙台藩の最後の仕事だったらしい。
江戸時代、城下の武家屋敷には自給のためのたくさんの樹木が植えられていた。たとえば、杉や檜は家を建て替えるときの用材に。梅、柿、梨、桃、リンゴ、栗など実のなる木は食用に。それは家族が楽しみに待つ味わいでもあったのだろうけれど、生活が行き詰まっていくと大量に採れる梅の実などは売りに出されるようになり、やがて代々大切に守ってきた梅の大木まで手放さざるを得なくなる。
「愛樹を売る」と題された一節には老梅が根回しされて荷車に積み込まれて門を出ていくようすが記されている。
「ある日、人足体の男が、ドヤドヤと裏に入り込み、老梅の周囲を掘り始めました。やがて根に土をつけたまま荒縄で縦横にしばり、枝をそちこち伐り落して、手をもぎとられたようになった胴体を、ごろりと横ざまに荷車に積み、エンヤラエンヤラとかけこえ賑やかに曳きだしました。けれども屋敷を出るところで梅は急に動かなくなった。……それを見ていると老いた幹から血でも滴るような気がして、長く棲み慣れた屋敷から離れて行くのを、いやがるのではないかと悲しくなり、いそいで家に駆け込みますと、茶の間では祖母と母とが、眼を泣き腫らしておりました」
この梅を買ったのは、生糸の売買で成功し、銀行や生命保険会社の重役を務めていた佐藤三之助なる人物。才覚ある新興勢力が力を増して旧武家地を手中に納め、城下町の構造が変わっていくようすが見えるようだ。
やがて星家は、離れに軍人や官吏などの借家人を置いて賃料をとるようになり、母は持ち込まれる縞見本を手に賃機に精を出し、ついに代々守ってきた家財も売りに出し始める。大切にしてきた具足櫃やおひな様の長持ちがいつの間にか消え、家の中ががらんとした中に取り残されていくようなさびしさを、少女の黒光はしっかりと見届けている。
こうした箇所を読むと、同じように少年時代から苦労を重ねた私の祖父の顔が思い浮かんでしまう。祖父は明治34年(1901)生まれなので、黒光の息子といっていい世代なのだけれど、同じように伊達家の武士の末裔で、頼りにならない父、細腕で奮闘した母を持ったその少年時代の経験は、少女時代の黒光の経験にぴったりと重なる。
私がそう言い切れるのは、祖父が子ども時代の経験を書き記した何冊ものノートを残してくれたからだ。
たとえば質屋通い。町はずれにある質屋に質草を入れるとき、大人は子どもに使いをさせたらしい。黒光は肩に食い込みそうな大きく重い荷物を背負わされ、母をいっしょに夜道を歩いていくのだが、質屋が近づくと母は提灯の明かりを消して黒光に背中の荷物を店の主人に渡してこい、といいつける。祖父もまた母親が柳行李から質草を選び出すのを見ていて、手渡された風呂敷包みを黙って受け取ると質屋へと小走りに走り出す。
たとえば、お蚕。星家では、桑の木を植えてたくさんの蚕を飼ったのだと思うが、祖父は母と2人、朝仕事に近所の農家に行き桑の葉摘みをしてお金を受け取っている。
ひと世代下がっても繰り広げられていたまるで同じ生活に、明治初期の仙台の街の停滞ぶりを教えられるようだ。
ある家族の暮らしが、ひと世代下がったもう一つの家族の暮らしとつながり、地域史を想像させる線になっていく。やはり、書き残しておくって大事だなぁとあらためて思ったこの秋。新宿中村屋の黒光さんは、私のひいおばあさんでもあるのだ。