緑色の壁

植松眞人

 仕事が辛かった。デスクワークなのに、まるで一日中走り回ったかのようにぐったりと疲れ切っていた。最寄り駅からバスのなくなった路線をバス停四つ分歩いて古びたマンションに着いた。中古で買ったマンションは最近になって若い人たちがたくさん入居してきて、住居用のマンションだったのにアクセサリー店を開いたり、革製品の工房を開いたりして、妙な具合になっていた。
 五階建てのマンションにはエレベーターがなかった。階段で四階まで上がり、自分の部屋の鍵を開ける。妻はもう寝ているだろう。妊娠がわかってから妻はやたらと眠るようになった。以前は宵っ張りだったのだが、いまでは夜の七時、八時にはベッドに入ってしまう。
 静かにドアを開け、物音を立てないように荷物を置くと玄関口に座り込んで靴の紐を解いた。そして、立ち上がり部屋の奥の方へと向き直ると、玄関からリビングへと続く短い廊下が緑色だった。
 今日家を出るときには、白い壁紙で覆われていた壁が少しくすんだ濃い緑色になっていた。朝顔の葉っぱのような緑だな、と私は思った。そして、じっと壁紙を見つめた。緑色の壁紙は無地ではなくよく見ると、やっぱり朝顔の葉っぱにある葉脈のような模様があった。プリントではなくちゃんと凹凸があり、指先で触ると本物の葉っぱのようで葉脈の部分は不規則に盛り上がっていて、まるで巨大な朝顔の葉っぱをそのまま壁紙として貼り付けたように思えるのだった。
 私はしばらく廊下に立ち尽くしたまま緑色になった壁を眺めたり、指先で触れたりしていた。なぜ、妻は私になんの相談もしないまま壁を緑色にしたのだろう。白い壁になにか不都合でもあったのだろうか。
 私はいろんな理由を数えてみたのだが、しっくりと腑に落ちる理由には出会えなかった。答えなど最初からないとわかっているのに、くるくると鉛筆を右手で回しながら答案に向かっているような気分だった。
 リビングと玄関を区切るドアは閉ざされていて、磨りガラスには薄らと橙色の常夜灯が映っていた。妻はもう寝ているのだろう。私はドアを開けた。常夜灯のオレンジ色の光に照らされたリビングの真ん中のタグの上で、妻は薄いタオルケットだけを足元にかけて眠っていた。
 リビングの壁は今朝見たままの白い壁紙に覆われていた。私はなんだかホッとして妻に「ベッドで寝ないと風邪を引くよ」と声をかけた。だいぶお腹が目立つようになってきた妻は、そのお腹を愛おしむように撫でながら目を開いた。横になっている妻の身体に私は背後から身体を寄り添わせて、妻の背中に頬をつけて妻のお腹に手を這わせた。「最近、よく動くのよ」と妻は言う。私は妻の着ていたタオル地の部屋着をたくし上げて、生身の腹に直接手を置いてみた。掌から妻の身体のぬくもりと鼓動のような振動が伝わってきたが、お腹の中の赤ん坊が動いているかどうかはわからなかった。「いまも動いてる?」と私が聞くと、妻は「ずっと動いてるわ」と答えた。私は用心深く手の腹をさっきよりもほんの少しだけ強く妻のお腹に押し当ててみる。すると、さっき玄関先の緑色の壁紙にあった葉脈のような凹凸が感じられた。妻のお腹を走っている血管なのだろうか。私はその凹凸に沿って、そっと指を這わせた。「くすぐったい」と妻は言って笑った。私はそこで妻が笑ったことがなんとなく妙な感じがして黙っていた。「どうしたの」と妻が聞いた。「どうして緑なの?」と私は質問で答えた。「だって、私、緑色が好きだもの」と妻は答えた。「君は緑色が好きだったのか」と私が言うと、妻は「馬鹿ね」と言った。
 妻は寝室へ行き、僕は緑色の廊下を通ってバスルームに行き、シャワーを浴びた。そういえば、バスルームにある洗面器やタオルや石けん入れも淡い緑色をしていた。そうか、妻は緑色が好きだったのか、と私はシャワーを浴びながら思ったのだが、本当にこのバスルームにある緑色のいろんな物が、昨日も緑色だったかどうか思い出せないのだった
 シャワーを終えて、寝間着に着替えると、私は再び緑の廊下を通り、リビングを通って、妻が寝ているベッドルームへと向かった。そして、その途中、私は立ち止まった。緑色の廊下とリビングを区切っているドアのあたりだった。
 よく見ると、廊下の緑色の壁紙はリビングのドアを少しはみ出して、リビングルームの側にも入り込んでいた。リビングの側から見ると、ちょうど白いドアを緑色のぎざぎざとした壁紙が縁取りしているようにも見えたし、少し見方を変えると、巨大な朝顔の葉っぱの真ん中に白いドアがはめ込まれているようにも見えた。
 「時間の問題だな」と私は思った。そして、しばらくその様子を眺めていたが、芯から身体を揺するような疲れに押されるようにベッドルームへ入った。妻の隣に半分開いていたスペースに身体を滑り込ませた。そしてまた背後から妻を抱くようにして、妻のお腹に掌を這わせてみた。さっきよりも葉脈のような凹凸がはっきりと感じられるような気がした。妻は小さくいびきをかいて寝ていた。(了)